嫌われる「仏教学部」

  マイスターです。

教育を考える際、しばしば議論されるのが、「宗教教育」のあり方です。

アメリカでは、公立学校では、特定宗教の教義内容や信仰を教えることは禁じられています。

ヨーロッパでは、国によって差があるようです。
以前、ドイツの公立学校ではキリスト教の基礎知識を教えていると聞いた覚えがあります。しかし地域によっては、イスラム教徒の移住者によるコミュニティが拡大していて、「イスラム教も学校で教えるべきだ」という声があがっているとかいないとか。

そして日本は、おそらく世界でも最も宗教教育に対して抵抗感の強い国の一つでしょう。

マイスターも、信仰そのものを学校で教えるのは、基本的に反対です。
信仰というのは、その人の価値観や世界観を規定するような、根本的な概念です。それを早期から学校で教えるというのは、少なくとも今の日本には合わないように思います。

ただ、だからといって、宗教について考えることをタブー視したり、過度に避けたり、変な誤解を持つような不完全な形で教えてしまったりするのも、それはそれで何か、極端な気がします。

世界の文化や芸術を深く調べたり、政治経済のあり方を分析したり、国際関係を考えたりする上で、宗教についての基礎知識は欠かせません。
特定の宗教に深入りするのではなく、世界史的な視点から、客観的に宗教の電波やその影響について考えるのは、大事なことだと個人的には考えます。
もしかしたら、英語を操れるようになることよりも、もっと重要なことかも知れません。

「歴史家の視点で見たら、宗教というテーマほど面白い素材はない。宗教家の視点ではなく、歴史家の視点で見てみなさい」と、マイスターは中高生のとき父親に言われたのですが、この言葉、一生実践するつもりでいます。
(マイスター父:歴史系学科卒)

このように、高校までの段階で「宗教」を客観的に見られるようにしておいて、さらに特定宗教について研究したい方はその後、大学で学べばいいと思うのです。

さて、先日、↓こんなニュースを見つけました。

【教育関連ニュース】—————————————–

■「『仏教』の看板はずす大学相次ぐ 志願者減受けて」(Asahi.com)
http://www.asahi.com/kansai/news/OSK200707280066.html
————————————————————

長い歴史を持つ仏教系大学が、相次いで大学や学部の名前から「仏教」の文字を外している。地味なイメージを持たれがちで、志願者が減っているためだ。西日本では来年、仏教学部のある4年制大学が消える。ただ、どの大学も「建学の精神は守る」としている。

弘法大師・空海が平安時代に開いた庶民のための学校「綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)」を起源とする種智院大(京都市伏見区)は、来年度から仏教学部を人文学部に改める。同大学は、西日本で仏教学部がある唯一の4年制大学だった。残るのは駒沢(東京都世田谷区)、立正(同品川区)、身延山(みのぶさん)(山梨県身延町)の3大学になる。

種智院大は、もとは仏教学部仏教学科だけの4年制単科大学だった。99年に仏教福祉学科を新設し、05年に社会福祉学科に改称した。ここ数年、仏教学科は入学者が定員の50人を1~4割下回り続け、社会福祉学科も今春は定員100人の約半分しか入学しなかった。

同大学は、インターネットで大学情報を検索する最近の受験生が仏教学部のところで関心を失い、社会福祉学科の案内までたどり着いていないと分析。学部名が、募集の差し障りになっていると判断した。

杉野文篤事務長は「綜芸とは様々な学問、種智とは仏の教え。学部名を変えても、幅広い知識を身につけた人間の形成を目指す建学の精神は変わらない」と話す。

1400年前、聖徳太子が開いた四天王寺の仏法修行道場「敬田院(きょうでんいん)」が起源の四天王寺国際仏教大(大阪府羽曳野市)は来年4月、校名を四天王寺大に改める。もともと「四天王寺自体が仏教寺院の名前であり重複感がある」という声があったところに、志願者減が重なった。今春の入試は受験者が約1200人。10年前に5倍を超えていた倍率は2倍を切った。

森田俊朗理事長は「仏教の素養は就職先で高く評価されるが、葬式のイメージもあって抵抗感を持つ人もいる。誤解を解くためにエネルギーを使うのを避けることにした」。就職に重点を置いた課程に改めるが、全学部必修の仏教4単位は継続するという。

(上記記事より)

このように、「仏教学部」という名前が敬遠されているそうです。

記事によれば、仏教学部を持つのは、以下の3大学だけになるのだそうです。

【仏教学部を持つ大学】

・駒沢大学
・立正大学
・身延山大学

そしてちなみに、通常キリスト教を意味する「神学」を教える、「神学部」を持つ大学は、以下の6大学です。

【神学部を持つ大学】

・同志社大学
・関西学院大学
・上智大学
・東京神学大学
・西南学院大学
・東京基督教大学

いつの間にか仏教学部よりも、

神学部の方が多い国になっていた日本。

いや、マイスターは別に、仏教が好きなわけでも、キリスト教が嫌いなわけでもありません。
上記のような状況になっていても、別にマイスターが何かダメージを受けたり、がっかりしたりするわけではないのです。

ただ、我が国の文化や歴史に与えた影響の深さを考えると、何か、不思議だなという気分にはなるわけです。

他校の改名の流れについて、身延山大の望月泰幹事務局次長は「仏教者としては寂しいが、私学としては生き残りをかけた仕方のない施策だろう」。大手予備校の進路指導担当者は「早慶や関関同立などブランド名が確立した大学を除けば、多くの私大は経営が厳しく、受験生を意識してイメージアップを図っている」と話す。

(上記記事より)

と、冒頭の記事にはあります。

受験生が仏教学部を敬遠する理由ですが、例えば、

・基礎知識がほとんどないため、「よくわからない。自分には関係ない」と思ってしまう

・イメージが悪い。「仏教」→「お坊さん」→「葬式」など、辛気くさい印象を持っている

・卒業した後にどうなるのか、想像できない。仏教の勉強がどう役に立つのか想像できない

……といったところが代表的なのかなと想像します。

ひとことで言えば、「イメージできない」です。
もしくは、「知識が浅く、イメージが貧困」です。

個人的には、文学部と同じくらい面白そうな学部だと思うのですが、「おしゃれじゃない」とか、「先端的でない」という印象を持たれてしまっているのでしょう。

数百年の歴史を背負った大学ですら、仏教学部を改名する方向です。
理由は、「受験生からのイメージが良くない」です。

個人的には何か、残念な気がしてしまいます。
もちろん、「受験生減」という現実に対応せざるを得ない大学の事情はわかります。
マイスターがその大学の関係者だったとしても、そういう方針をとったかもしれません。

その上で、でも、何かもったいないなぁ……と惜しんでいるわけなのです。

でも、考えてみれば、ある意味当然の結果かもしれません。
冒頭で申し上げたとおり、日本では、宗教について考えるのは半ばタブー化されています。というか、バランスの取れた視点で教えられる人が、中等教育の現場にあまりいないのではないでしょうか。

個人的には、世界史や日本史で、歴史的な視点で教えるのが一番いいような気がするのですが、以前の「履修逃れ事件」で世界史が真っ先にふっ飛ばされていたことからもわかるように、これはあまり期待できません。
そもそも教員が、というか我々日本人の大人全体が、宗教についてあまりにも無知・無防備です。果たして、うまく客観的に-しかしただの暗記物にはせず-という形で高校生達に教えられるでしょうか?

結果的に、ヘタをすると「宗教に関して一度も深く考えたことがない」という状態で、高校生達は進路を選ぶことになるわけです。
で、知識ゼロで「仏教学部」なんて言われても、お葬式のイメージしか浮かばないのは、当然と言えば当然ですよね。

というわけで前置きが長くなりましたが、とりあえず日本でも、「宗教」についてバランス良く考えさせる機会があった方がいいんじゃないかな、と思ったマイスターでした

3 件のコメント

  • 神学部が仏教学部のように減らないのは、牧師さんや神父さんになるには高等教育機関での神学教育を受けていることがほぼ必須であるという事情があるからだと思います。
    (「神学」は「キリスト教学」とは違い、基本的には信仰を前提にしています)

  • ども、ミナベです。
    >マイスターも、信仰そのものを学校で教えるのは、基本的に反対です。
     これって、「公立では」ってことですよね? 私学の1/3はキリスト教主義学校だと聞いたことがあるので、信仰を教えなかったら建学の精神そのものの意義がなくなってしまうなぁと感じました。

  • 佛教大学が再来年の平成22年実に40年ぶりに仏教学部を復活させることになりました。あえて復活させる意義と意味を今後注視したいです。