気づけば、色々な仕事をしているマイスターです。
企画を考えたり、文章を起こしたり校正したり、大学の教員や職員の方と話したり。
地味でこつこつとしたルーチンワークもありますし、たった一回限りのためにすべてを考え準備する、まったく新しい仕事もあります。
「若者の前で話をする」というのも、大切な仕事です。
相手は大学生だったり、高校生だったり、色々です。一対一のこともあれば、教室の前に立って、一度に数十人に向かって話しかけるようなシチュエーションもあります。
別に「教員」とか「先生」とか言われるような立場でもありませんし、それほど大層なことを言えるわけでもありませんが、それでもそのときは、教育というものの重みを、自分なりに感じながら場に立ちます。
正直、至らない自分を感じることも非常に多いです。しかし、世の中の「先生」と呼ばれる方々も、最初はそういうところからスタートしているわけですから、精進あるのみです。
「教育」という行為に関わっている方は、世の中にとてもたくさんいるはずです。
当たり前ですが、子供を持つ保護者の方だって、教育に大いに関わっています。
生業としているかどうかにこだわらなければ、「教育に関わらない人は世の中に一人もいない」という言い方すら、可能です。
しかし世の中、「あなたは教育する人、私は教育を任せる人」という役割分担の壁が、ずいぶんと高いものになってしまっているようです。
学校という教育機関の構成員ですら、「教員の先生」と、「そうでない人」という区分がはっきりしています。
もちろん、専門知識を教えられるその道のプロと、そうでない人の違いははっきりしていますし、その役割分担は非常に重要です。それぞれ、できることは違うわけですから。
しかし、そもそもそういった前提以前に、
「保護者、および『教員』と呼ばれる人間しか、教育に関わってはいけない」
という、なにか思いこみというか強迫観念というか、社会的な暗黙の了解のようなものを、私達はつくってしまっていないでしょうか。
そんなことを思いながら、子供達に向かうマイスターです。
さて、今日は↓こんな話題をご紹介します。
【教育関連ニュース】—————————————–
■「教師力 大学編(10)職員が授業 教員も評価」(読売オンライン)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/renai/20070714us41.htm
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教師力向上という点で、教員と職員の垣根が低くなってきた。
「起立、礼。よろしくお願いします」
今春開学した東京未来大学で10日に行われた「キャリアサポート」の授業は、こんなあいさつで始まった。場所は旧東京都足立区立第二中学校。テレビドラマ「3年B組金八先生」のロケが行われた場所だ。
教壇に立つのは職員の三浦正江さん(29)。同大ではキャンパスアドバイザー(CA)と呼ばれている。全3クラスに1人ずついて、広報などの対外的な事務も担いながら、学生の相談役として学習面や大学生活、就職活動まで支援する。
また、社会人として必要な力を身につける「キャリアサポート」と、発表方法を身につける「プレゼンテーション」の週2コマ、授業も受け持つ。学生の相談に乗ることも多いため、授業自体がホームルーム的側面を持っている。三浦さんは同大開学まで6年間勤めた専門学校でも、同様のスタイルで教壇に立ってきた。
(略)
FD(教師力向上の取り組み)を担当する大橋功教授(49)は、三浦さんらCAの授業を高く評価する。元中学校教員で、前任の佛教大准教授時代から約10年、FDに携わってきた大橋さんが「学生に私語や居眠りをさせない授業の技術が、教員にとっても参考になる」という。学生を引きつける技術には、教員も職員もないということだろう。
同大では9日から20日までの間、この授業だけでなく、心理学や法学など指定した授業について、教職員が互いに参観できるようにした。従来の大学の常識から当初は「教員と職員の線引きははっきりすべきだ」という声もあったが、今では教員の間で、CAの価値が認識されている。
11日に開かれたFD委員会の会合では、三浦さんが学生との面談結果を報告。個々の学生の名前も挙げ、授業に寄せられる不満の声などについて、教員と情報交換した。日常的に学生と接している綿密な情報が生かされているという。
教員と職員の連携。それはFD強化の第一歩と言えるだろう。
(上記記事より)
というわけで、東京未来大学の取り組みです。
■東京未来大学
http://www.tokyomirai.ac.jp/
いかがでしょうか。
人によって、色々と感じるところがあると思います。
マイスターがこの記事を読んでふと感じたのは、
無理に「教員」と「職員」という対比をする意味が、実はもう、あまりないんじゃないかな、
ということでした。
「研究者とアドミニストレーターが、それぞれの専門を生かして教育を行っている。
そのために、授業のスキルをお互いに参考にし合っている。」
という書き方をした方が、いっそ上記の記事をすっきり説明できるのではないか、という気がします。
上記の記事は、
教師力向上という点で、教員と職員の垣根が低くなってきた。
という書き出しで始まっています。
しかし考えてみれば、教壇に立っている時点で、記事に出てくる三浦氏は既に「教える人」です。
教員と職員の垣根が低くなった……という説明は、従来からの職務認識にこだわるあまり本質を美味く説明しきれていないのではないか、とマイスターは感じました。
「研究者に限らず、多くの専門家が、教壇に立つようになった」
……というのが、正確ではないでしょうか。
(おそらく読売新聞の記者の方も、意味としてはこういったことを伝えたかったのではないかと思います。ただ、読者がイメージしやすいようにと、敢えて「教員」と「職員」という説明をされているのではないでしょうか)
ちょっと、ややこしいですよね。
では、どうして、ややこしいと感じるのでしょうか。
その原因は、「職員」という言葉の使い方にあるのではないかと、マイスターは思います。
(※話が冒頭の記事から少し離れますが、せっかくなのでちょっとだけおつきあいください)
「大学職員」という言葉は、一般に広く使われています(または、「大学事務職員」)。
マイスターも使っています。
しかし、このくくり方も、今となっては随分、無理のある表現だと思いませんか。
企業では通常、業務にあわせて「営業」とか「開発」とか「企画」とかいった呼び方をします。
少なくとも社内では、「社員の○○さん」なんて呼び名はありません。職務が専門分化しており、一言で言い表すことはできないからです。
しかし大学では、研究者の方以外は、「職員」の一言です。
実際には企業と同じように、企画や広報、教務や財務といった、専門分化した業務があるわけですが、教員や学生から見たら「職員の○○さん」の一言です。
酷い場合は、「事務方の皆さんにお願いします」のように全部ひとくくりの、よくわからない一般人みたいな扱いですまされることもあります。
随分、乱暴な話です。
そういう認識をされている「職員」が、教壇に立つというから、ややこしい話だと感じるのではないか。
冒頭の記事を読んで、マイスターはそう思いました。
実際には、冒頭の記事の三浦氏の活動には、何の無理もありません。
「職員」という呼び名と、それに付随する認識が、話を不自然にややこしくしているだけのことなんじゃないかと個人的には思うのです。
(ちなみに、同じ悲劇は、実は「教員」の方々も受けていると思います。
一言で「教員」といっても、実際には、色々なタイプの方がいるはずですが、世間は「大学教授はかくあるべきだ」といった論調で、すべてをひとくくりにします。
大学の職員達も、「先生方」という言葉で、けっこう乱暴に研究者の皆様をまとめてしまっていることがあるでしょう)
正直、大学が担っている機能のすべてを、「教員」・「職員」というふたつの呼び名だけで表現するのは、とっくに不可能になっているように、個人的には思います。
……っと、話が逸れてしまいました。
色々と書きたいことはありますが、ここでは、
「せっかくなのだから、『教育者』の範囲を、学内でもう少し広く捉え直してみませんか?」
ということだけ、ご提案したいと思います。
マイスターが知っている中にも、職員と呼ばれる立場でありつつ、教育者としての役割を果たしている方々が、大勢います。
いつまでも、彼等が「職員なのに教育もやる」という認識のされ方でいるのは、何だか個人的に落ち着きません。
柔軟に、すべての構成員が得意技を総動員して教育にあたる、と考える。
そんな組織が、理想的な教育機関だと思います。
以上、マイスターでした。
確かにマイスター様のおっしゃるとおり、今までの区分では現在の多様な学生に対応しきれない部分は多くあるかと存じます。
本当に簡単なことですが、「大学職員」という括りを取り払って別の呼び方にしてしまうというのも今後はアリなのかな?と個人的には考えています。
職員が授業をしたら、学校教育法に違反するのではないでしょうか?
教員も教育「職員」ではないか・・・などという瑣末な話はさておき、キャリア支援プログラムやリメディアル教育ではすでに事務職員枠で採用された方や、外部委託講師がふつうになってきてますので、教授会の意識改革が大切なんではないかな、と思います。
教員も教員で知的財産担当助手、なんていうのもありますね。