情報教育を考える(2):「情報を疑う力」が、全国民に必要だ

マイスターです。

※昨日の記事
・情報教育を考える(1):「情報」って何?
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50153040.html

昨日は、以下のようなことを書きました。

○1:情報というものは必ず、特定の意図を持った誰かによって、特定の目的に沿って編集されている。
でもそのことを、私達のような一般生活者は普段あまり意識していない。
○2:世の中のあらゆるものごとは、情報を媒介・伝達するためのメディアになりうる。
そのため、私達は知らず知らずの間、無意識のうちにメディアを通じて誰かの意図した情報を取り込み、自分のものにしている。
○3:いつの時代においても、情報を配信する者は、情報を受け取る者の思想や行動を支配する立場にあった。
○4:<古代 → 中世 → 近代 → 現代>
と時代が進む間に何度か、一般生活者である私達に流される情報が爆発的に増加した時期がある。
今現在もまさに何度目かの、爆発的増加の時期のひとつである。

それゆえ、今後は「あらゆる情報を、批判的に読みとく力」が基本的なスキルとして必要になるとも申し上げました。

もう少し、これらについてご説明します。

特に、「情報は必ず、誰かの都合、意図に沿って編集されている」という前提を持つことは、非常に重要ですので、そのあたりについて詳しくご説明したいと思います。

マスメディアを通じて私達が目にする情報は、そのメディアの都合に合わせて、必ず「誰かが手にかけたもの」が用意されています。

現代において、最も影響力を持っているメディアは、テレビでしょう。
テレビが流す情報は、「時間の都合」の制約を非常に強く受けています。
テレビで流される映像というのは、プロデューサーやディレクターが、かならず全体の構成をかなり綿密に考えています。
その際、放映時間が2分なら、その2分間でなにがしかの「結論(オチ)」がつくように、ムダな部分をこそぎ落とします。

例えばどこかの会社や官庁が、汚職事件などを起こしたことについての報道。
関係者のインタビューは、都合良く前後をカットされ、問題のある一フレーズだけが報道されます。
(その結果、文脈が崩れ、実際のインタビューで話されていたこととまったく別のニュアンスになる、なんてことはよくあるのですが、あまり視聴者には知られていませんよね)
で、とりあえずコメンテーターが「こうした会社は淘汰されるべきですよね」みたいな当たり障りのないコメントを出せば、それでこのニュースは一応、終わらせられますよね。

「○○会社は汚職まみれの古い体質だ」という方針で報道すると決まれば、それに沿って、すべての映像が構成されます。
本社ビルの映像も、一番「権威的、高圧的」に見える角度で撮影されます。たいていなぜか曇りの日の映像です。気持ちの良い青空に事件が起きた場合は、なるべく空が映らないようなカット割りになります。(これホントですよ。ニュースやドキュメンタリーを観る時は気にしてみてください。画面の背景をかなり意図的に選んでいるのがわかります)
街の人の意見も、ポジティブに評価する意見は、基本的に編集時に取り除かれます。
視聴者にとって「消化に悪い」からです。

テレビは、限られた時間内に情報を視聴者に確実に「消化」させることを最大の編集方針としています。
それゆえこういう強引な手法も、制作現場では効果的な基礎技術の一つとして、頻繁に活用されています。
(特にドキュメンタリー番組は、明確な社会テーマを扱うだけによけい、番組コンセプトに合わない情報を排除しがちです)

「映像は真実を語る」と言いますが、上記のような意味で言うと、映像はウソも語ります。
私達が見る映像というのは、テレビ制作サイドの都合に合わせて組み替えられ、強引に特定の意図を付加された情報です。
明確な事実の改ざんではなく、「印象操作」というレベルで巧妙に行われるので、気づかれないのです。
テレビ局は「私達は事実を報道している」と言い張れるギリギリの部分でこうした行動を行いますから、私達にとっては問題なのです。
(そして当然ですが、テレビ関係者がこうしたことを問題として社会に提示することはありません)

時間の制約だけではありません。
テレビの場合、民放なら必ずスポンサーがついていますので、そうした商業主義的な制約からも影響を受けます。

自動車会社がスポンサーになっているドラマでは、作中で絶対に自動車事故が起きない、というのは皆様ご存じでしょう。
また、健康番組やダイエット番組では、スポンサー企業の製品をなるべく多く使用した被験者が最も成果を上げる、という法則があることにもうすうすお気づきでしょう。
(せこい例ですが、子供向けの「戦隊モノ」番組では、かならず最後は巨大ロボットに乗って敵を倒します。しかも、何故か番組の中盤で必ず、ロボットが壊れてリニューアルしたり、それまでの武器が通用しない敵が登場したりします。スポンサーがおもちゃメーカーだからです)

こうした例はまだかわいいのですが、ニュース番組が、スポンサー関係のない企業の悪事は徹底的に暴き、自局に関係する情報については控えめな表現にする、なんて例はシャレになりません。
情報は、あらゆる都合を勘案した後で、私達に提供されているのです。

テレビの例だけでも、挙げればキリがありません。
でも新聞や雑誌などの紙媒体も、必ず誰かが編集した情報を私達は受け取っているのですから、上記のようなことはすべて当てはまるはずです。
時間の都合が、紙面の都合になるだけの話です。

マイスター自身、webというメディアを通じて、企業の情報を提供する側に立っておりましたので、こうした制作側の都合は嫌というほど知っているつもりです。

例えそれが悪意による行為でなかったとしても、メディアによって伝えられる情報には特定の意図が加味されています。
(その意味では、メディアが伝える情報はすべて宣伝と同じかも知れません)

マスメディアは、基本的に「プロ」が編集をしています。
彼らは非常に洗練された編集作法を用いて、自然に情報を組み立てます。

ですから、それが意図的に編集されたものであるということを、情報の受け手である私達も普段はあまり意識しないのです。そこに、情報流通の危うさがあります。

独裁国家の国営ニュース報道などを見ると、情報操作していることがあまりにも明白ですから、私達は「怖いなぁ」とすぐ感じますよね。
でも実際には、世界中のあらゆるメディアが、多かれ少なかれ情報を意図的に編集しているわけです。ただ、その手法があまりにも洗練されているので、独裁国家の国営放送と比べて編集の痕跡に気づきにくいというだけです。

私達は、情報を疑うことには、おそろしく不慣れです。
新聞や雑誌の記事を、一つ一つ検証しながら読む人なんていません。
お茶の間に流されるテレビの映像が、いかに選別されたものであるか、現地に行って確かめる人はいません。

もちろん、マスメディアはある程度、社会からの信頼を受けて情報を配信しているという前提があります。
同じ新聞でも、発行部数の多い全国紙と、キオスクで販売されるスポーツ紙などでは、情報に対する信頼もまるで違うでしょう。
全国紙だけ読んでいれば、誤った情報を信頼したり、事実と大きく異なる報道を呼んだりするリスクは減らせたわけです。

さて、

ところが現代では、信頼性を確認するのが困難な情報が、膨大に流通するようになりました。
その原因の一つが、インターネットとwebの普及です。

ここまで、信頼性のない情報が大量に一般生活者にふりそそぐ事態は、おそらく人類史上はじめてのことでしょう。

問題は「2ちゃんねる」のような匿名掲示板に限りません。現在はブログが急速に普及していますが、ブログ上の記述だって、事実とは限りません。
超有名ブログと自分のマイナーなブログを同列で論じるのは気が引けますけれど、「俺の職場は大学キャンパス」も「きっこのブログ」も、日々流す情報量は多いのですが、情報が正しいかどうかの保証はありません。すべて読み手側の判断にかかっています。

(もちろん、事件情報などをお伝えする際は信頼できるメディアのリンクに限るなど、誤った情報を伝えないように努力しております!
でも本ブログは「きっこのブログ」と違って、スクープを載せるようなメディアじゃないから、まだリスクは少ないかな…?)

このようにメディア上の情報流通量が日々拡大している一方で、情報に信頼性を付加させる方法は当分、見つかりそうにありません。

ことはインターネットに限りません。
テレビのチャンネル数も、雑誌などのメディア数も、拡大しているのです。
もし、民放のチャンネルが今の2倍になったら、それだけで私達の情報環境は激変ですよ。マイスターなんて現在のチャンネル選択だけでも混乱しているのに、2倍になったら、何を基準に観る番組を選べばいいのやら。

海外のメディアを翻訳して読む機会も増えるでしょうね。
海外の方とコミュニケーションする機会も増加するでしょう。

また人によって信頼しているメディアがバラバラになってくると、周囲の意見も今までほど統一された見解ではなくなってくると思います。

(ついでに言うと、国家間の競争についても、現在の様子を見ている限り、今後は「情報戦」「広報戦」と呼べるような手法が普及していきそうですので、国際関係に影響を与えそうな情報も、錯綜していきそうです)

要するに、これまで私達が経験したことのない、「情報におぼれる時代」がやってくるのです。
それが、「情報社会」という言葉の、本当の意味なんです。

さて、こんな状況の中、教育事業に関わる私達は、どうすればいいでしょうか?

これまで、「読み、書き、そろばん」から始まって、子供には

「与えられた情報をいかに理解するか」

を教えていれば良かったのに、これからは

「与えられた情報が、そもそも適切に編集されたものかどうか」

を見極めることを教えなければならなくなるでしょう。

これはもはや、「読み、書き、そろばん」に続く、第4の基本スキルと言ってもいいくらいです。
しかし大げさな話ではなく、「情報を疑い、吟味する」ためのスキルを知らないと、今後はもはや、十分な社会性と判断力を兼ね備えた国民として暮らしていくことすら難しくなってくるんじゃないかと、マイスターは思います。

繰り返しますが、私達の、「情報を疑う能力」は、まだまだ貧弱です。
個人的は、欧米と比べると日本人は特に貧弱なんじゃないかという印象があります。

どちらかというと日本の教育は、情報を効率的に取り込む方法に注力してきたのではないでしょうか。
正しく鑑賞したり、感想を述べたりすることは求められても、「批判する」ことについては、義務教育段階の学校生活ではあまり求めてこなかったように思います。

(以前ニューヨーク・タイムスで、米国人記者が日本の義務教育のありかたを称賛する記事を書いたところ、それに対して日本の私立中学校で教える外国人講師から、「日本では批判する思考方法を教育していない、お手本にすべきじゃない」という投書が寄せられていました…)

何しろ、これまで、こうした能力はあまり必要なかったわけですからね。
情報を取捨選択する能力というのは、少なくとも大学以上の教育によって身につく教養だったと思います。
しかしこれからは(残念ながら)もっと早い段階で、情報を選別し、批判的に読む力をつけさせることが、必要になってくるでしょう。

というわけで、説明が長くなりましたが、この

「情報を疑い、選び、批判的に読む力」

を、「情報リテラシー」、または「メディアリテラシー」と呼ぶのです。
リテラシーは「読む力」といった意味ですから、文字通りですね。

書かれている情報を正しく理解させる従来のリテラシーが、国語教育。

だとしたら、では情報リテラシーやメディアリテラシーは、いったいどういう授業で身につけさせればいいのでしょうか?

どこの誰が、どんな方法で、どのような教育を行っていけばいいのでしょうか?

ここまでこの記事を読んでくださった方なら、少なくともそれが「コンピュータ」の授業でないことはわかっていただけるかと思います。

インターネットは確かに、かなりの情報リテラシーを必要とするメディアではありますが、インターネットだけを疑うのでは、不十分なのです。
むしろ、「情報=コンピューター」という見方をとることで、かえって教育の目的を問題の本質から遠ざけてしまうのではないかと、マイスターは心配です。

そこで次回は実際に、海外で行われているメディアリテラシー教育の教科書をご紹介しましょう。

今日はもう長くなってきましたので、このへんにいたします。

以上、
自分もメディアの側で情報編集に関わってきたので、贖罪の意味も込めて記事を書いている、マイスターでした。

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(関連記事)
・情報教育を考える(1):「情報」って何?
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50153040.html