マイスターです。
■それぞれの卒業式 2009(1)
↑昨日に引き続き、卒業式の話題をお届けします。
【スポーツと学業を両立。】
■「川本監督に博士号…県立医大」(読売オンライン)
福島市光が丘の県立医大で24日、卒業式が行われ、同大大学院医学研究科博士課程を修了した福島大学トラッククラブの川本和久監督(51)が博士号の学位を取得した。
川本監督は、2003年4月から免疫学講座で、DNAの機能を利用して、その人に合うトレーニング方法を見いだす研究を続け、「トップアスリートの適正な『走る距離』は予測できるか」と題した論文を書き上げた。監督業の傍らで、1年5か月の休学もあったため、昨夏の北京五輪の際も現地で論文の執筆をしていたといい、式後、川本監督は「練習量を減らしても力がつく方法が分かり、無駄な練習がなくなった。卒業できて本当にうれしい」と笑顔を見せた。
(上記記事より)
■「アテネ五輪金・柴田さんが卒業式 鹿屋体大院修了『夢をあきらめないで』」(毎日jp)
04年アテネ五輪競泳女子八百メートル自由形の金メダリスト、柴田亜衣さん(26)が24日、鹿屋体育大大学院を修了した。式終了後の会見で「鹿屋に感謝の気持ちでいっぱい。夢をあきらめないで」と鹿屋市民と同大の後輩たちにエールを送った。今後は、鹿屋を離れ、デサント社員として水泳の普及、指導にあたるという。
柴田さんは、鹿屋体育大4年の時、アテネ五輪に出場。大学にとっても、開学24年目で初の五輪選手だった。無名に近かったが、競泳日本女子初の自由形金メダルに輝き、世界を驚かせた。
(略)式では、大学初の金メダリストとして多くの人に感動を与えたとして、福永哲夫学長から「褒賞状」が手渡された。振り袖とはかま姿の柴田さんは少し緊張した面持ちで賞状を受け取り、巣立つ喜びをかみしめていた。
会見には、福永学長や同大水泳部の田中孝夫監督と田口信教顧問も同席。柴田さんは8年間の学生生活を振り返り、「水泳をやってこれたのも鹿屋のみなさんのお陰。4年前の卒業式は合宿で出られず、今の気持ちはとてもすっきりです」と語り、人懐こい“亜衣ちゃんスマイル”が弾けた。
(上記記事より)
昨年の記事でも、ハンマー投げの室伏広治選手が博士の学位を得たという話題をご紹介しました。
今年も、スポーツの世界で活躍される方々の話題の卒業が、いくつか報道されていたようです。
競技と学業の両立はとても大変だったことと思います。
でもトップアスリートには、いずれ指導者になる方々も多いと思いますし、川本和久監督のように、指導者生活と研究がそれぞれに良い効果をもたらすこともあるでしょう。
大学の使い方として、とても素敵だと思います。
【後ろに道をつくっていく存在。】
■「筋ジス闘病の宮教大生・森さん 卒業生代表し答辞」(河北新報)
筋ジストロフィーと闘いながら宮城教育大(仙台市青葉区)で学び、卒業の春を迎えた生涯教育総合課程4年の森脩平さん(22)=青葉区=が25日の卒業式で、卒業生を代表して答辞を述べた。闘病経験を生かして健康福祉の研究を続ける決意を語り、新たな人生へ踏み出した。
(略)森さんは普段、車いすを使うが、式では同級生らの手を借りて一歩一歩踏みしめるようにステージに上がった。
(略)筋ジストロフィーと診断されたのは小学校に入って間もなく。大学の卒業研究では自身を対象にして、軽い運動を取り入れた場合の動きの安定を分析した。
「同じ悩みを抱える人の力になりたい」。身をもって運動の効果を実感し、大学に残って研究を続ける道を選んだ。
(上記記事より)
■「『あきらめない』障害はねのけ、堂々卒業 立命大・中村さん」(京都新聞)
高校の部活動で頸椎(けいつい)を損傷し手足が不自由となりながら立命館大産業社会学部(京都市北区)に進学し、福祉をテーマに学んできた中村周平さん(23)=右京区=が21日、卒業式を迎えた。川口清史学長から表彰された中村さんは4月から大学院に進学し「障害のある学生の支援を研究テーマにしたい」と意欲を見せる。
(上記記事より)
重い病気と闘いながら卒業した方の話も、毎年メディアで取り上げられます。
また、障害のある学生さんの話も、しばしば登場します。
かつては、キャンパス内での移動をはじめ、車いすの方々が各種の学生生活を送るのが難しい、という時代もありました。ただ、昨今では様々な環境整備も進み、こうしてキャンパスに通って学業を修めることも可能になってきています。
キャンパスの整備は、今でも十分とは言えないかもしれません。大きく変わったのはむしろ、私達の意識や考え方、理解の方でしょうか。
上記のお二人とも、引き続き研究を続けられるとのこと。
お二人の研究成果は今後、多くの方々が大学で学ぼうと考えたときに、支えになることでしょう。
【静かに続く、恒例の餞別。】
■「卒業生送る愛情卵焼き」(読売オンライン)
岐阜大学(岐阜市柳戸)の卒業式が25日行われ、同大獣医・薬理学研究室で小森成一副学長(61)が、卒業生たちに得意のだし巻き卵を振る舞った。卒業祝賀会を終えて次々と研究室を訪れた卒業生らはだし巻き卵をほおばり、思い出の学びやを後にした。
小森副学長は同大在学中、休学して調理師の資格を取得した。19歳から39歳までの20年間、学生や研究生を続けながら、実家が卵問屋を営む名古屋市中村区の柳橋中央市場内で、卵焼き専門店を経営してきた。
同大の獣医学課程では、研究室に卒業のお礼に来る学生らに、在学生らがたこ焼きなどを作って振る舞う伝統がある。小森副学長は「だし巻き卵を作って喜んでもらおう」と、5年前からプロの腕を振るってきた。
この日は、同大柳戸農場の鶏が産んだ卵80個と、かつお節とムロアジで取ったダシと合わせ、持ち込んだ卵焼き器と巻き板を使って研究室のコンロで焼いた。「明るい将来が開けるよう」との思いを込め、「祝」や「寿」の焼き印を押し、約2時間かけて20本のだし巻き卵を完成させた。研究室を訪れた名古屋市中村区竹橋町、安田琢さん(25)は「小森先生の愛情が詰まった、まさに愛情巻きです」と感激していた。
(上記記事より)
だし巻き卵のお味もさることながら、仕事をしながら20年間、学問を続けてこられたという小森副学長の姿勢を通じて学べることも多いだろうなと思います。
卒業する学生達にとっては、そういう意味でも、メッセージのこもった素敵な餞別になりそうです。
【JR福知山線脱線事故の被害者、今年も巣立つ。】
■「支え感謝 看護師へ巣立つ JR事故で重傷、克服した清水さん」(京都新聞)
2005年の尼崎JR脱線事故で重傷を負った京都橘大看護学部4年の清水知子さん(23)=大阪府豊能町=が13日、京都市山科区の大学で行われた卒業式に出席した。入学直後の事故で心身は大きく傷ついたが、4年たって今は「事故が看護師になりたいという思いをより強くした」と振り返る。支えてくれた友人、教職員、両親に見守られ母校を巣立った。
(略)救いとなったのが病院の看護師、大学の友人、教職員、そして両親だった。泣いていると看護師は肩に手を掛けて寄り添い、両親はただ静かに話を聞いてくれた。友人は病院に寄せ書きを届けて授業のプリントを集め、教職員は2カ月間学校を休んだ清水さんのために個別指導の態勢を組んだ。
卒業式で卒業証書が手渡されると大きな拍手が起こった。清水さんは友人や恩師と記念撮影しながら「事故で進級できないかもしれないと思った。みんなと一緒に卒業できてよかったという気持ちでいっぱい」と喜んだ。
26日発表の看護師の国家試験に合格すれば4月からは大阪府内の病院で働く。「患者の気持ちを理解し、精神的な支えとなる看護師になりたい」と力強く抱負を語った。
(上記記事より)
■「それぞれの傷越え…同志社大生、恩返しの旅立ち」(読売オンライン)
JR福知山線脱線事故で学生3人が犠牲になり25人が負傷した同志社大(京都市)で20日、重傷を負った法学部4年福島襟香さん(22)ら、入学直後に遭遇した事故を克服した4人が卒業式を迎えた。21日も重傷を負った学生1人が式に臨み、4月から新たな道を歩み始める。
マンションに激突し大破した2両目に乗っていた福島さんは、背中を強打。ガラス片などで全身を50針以上も縫う大けがを負った。1か月半後に復学できたが電車に乗れず、兵庫県西宮市の自宅から大学近くに引っ越した。
全身に細かい傷跡が残り背骨の痛みに悩まされた。突然、涙があふれるようにもなった。だが、車内に閉じこめられた約30分間、「18歳でもう終わり」と死を意識し、「もっとやりたいことをやっておけばよかった」と思ったことが、自分を強くした。
高校から始めていたモデルの仕事に本格的に取り組んだ。全国の大学生が集うコンテストに近畿代表として出場。サッカー部のマネジャーも務めた。4月からは大手銀行に就職する。
(略)同じ2両目で重傷を負った文学部4年の三井花奈子さん(23)(同県川西市)は事故後、心的外傷後ストレス障害(PTSD)と診断されたが、「事故から逃げたくない」と思い、県こころのケアセンター(神戸市)で、事故の記憶を語ることで恐怖を打ち消す「曝露療法」に取り組み、PTSDを克服した。
4月からはシステムエンジニアとして働く。三井さんは「社会人として自立することで、家族ら支えてくれた人たちに恩返ししたい」と話していた。
(上記記事より)
昨年に引き続き、あの事故を体験した学生さん達が大学を卒業されます。
事故の報道でショックを受けた人は多いと思いますが、その場にいた人にしか、事故の本当の衝撃はわからないかもしれません。
大きな傷を負いながらそれを克服し、こうして卒業の日を迎えた学生達は、多くの方々の誇りであり、社会にとっての希望そのものです。
復帰の中で、多くの方々にも支えられたのでしょう。
周囲への感謝の言葉が、強く響きます。
【夢はいつでも叶えられる。】
■「64歳『夢はかなう』金良さん、名桜大卒業/生半可は嫌い 次は大学院」(沖縄タイムス)
「いつか学ぶチャンスは巡ってくる」。名桜大学で20日行われた卒業式で、64歳の金良宗幸さん=今帰仁村=が国際学部を卒業し、瀬名波榮喜学長から勉学精励賞を授与された。建設会社会長や業界団体の理事長として多忙な生活の傍ら、「生半可は嫌い」と熱心に勉強に励んだ姿勢が評価された。金良さんは「次の目標は大学院。学んだことを地域に還元したい。夢はかなえるものなので、頑張りたい」と語った。
金良さんは南洋のポナペ島で生まれ、戦後今帰仁村に引き揚げた。9人きょうだいの長男として弟や妹の学費の面倒を見るため、高校進学を断念。22歳の時、「裸一貫から」会社を興し、休む間もなく働く毎日だった。
3人の子どもが成人したのを機に「向学心が捨てきれず」、2002年泊高校通信制課程に入学、卒業と同時に名桜大へ進学した。
大学では興味があった国際文化を専攻。経営情報の授業では、パソコンの技術も学んだ。長年経営の現場にいるだけに、逆に先生や生徒から教えを請われることもあったという。
(上記記事より)
■「64歳学びや巣立つ キリスト教学院短大」(琉球新報)
西原町の沖縄キリスト教学院大学・短期大学(ランドルフ・スラッシャー学長)で14日、卒業式が開かれ、計312人が学びやを巣立った。31年間勤めた会社を定年退職した後、「今こそ本格的に勉強するチャンス」と同短大英語科に入学し、2年間の学生生活を終えた新垣克子さん(64)=浦添市=は「毎日必死だったけど、夫や家族、クラスメートの支えで、本当に楽しい短大生活を過ごせた」と喜びに包まれた。
戦争で亡くなった父に代わって新垣さんら4人の子どもを女手一つで育てた亡き母を助けようと、高校卒業後は製糖工場や基地従業員を経て、1970年に琉球電電公社(後のNTT)に入り、生計を支えた。家庭を持ち、2人の子どもたちも社会人に。自らも定年を迎え、「本格的に英語を勉強したい」という長年の夢を、社会人入学制度でかなえた。
(略)新垣さんは「家族の協力のおかげで卒業できた。これからは家族のために、できることをやっていきたい」と話しながら、「いつかは『赤毛のアン』の舞台のカナダのプリンスエドワード島にも住んでみたいな」と新たな夢を掲げた。
(上記記事より)
■「72歳で博士、40年の研究実る」(新潟日報)
23日に新潟市中央区の朱鷺メッセで行われた新潟大の卒業式で、新潟市西区の田巻敦子さん(72)が大学院現代社会文化研究科博士後期課程の修了生代表として演壇に上がり、学術博士の学位記を授与された。主婦の傍ら、40年近く続けてきたイギリス教会史の研究が実を結び、式後、「進路などを悩む人に、いつから始めても遅いということはないと伝えたい」とほおを緩めた。
田巻さんの博士論文は「中世イングランドにおける修道院創建と告解制度」。(略)独学でフィールドワークを重ねたが、「論文にまとめる方法が分からない」と、62歳から放送大学や同大大学院修士課程で学び、2007年には新潟大の同研究科博士後期課程に進んだ。同課程の標準修了年限は3年だが、田巻さんは2年で終え、「研究する上であまり年齢を気にしたことはない。苦労よりも好奇心が先を行った」と打ち明ける。
今後も「博士論文で書ききれなかった課題を別の論文にまとめたい」と意欲は衰えない。
(上記記事より)
こうした方々の話に触れると、自分はまだまだだ……と背筋が伸びる思いになります。
知への挑戦に終わりはない、夢はいつでも叶えられるぞ、そんな風に教えてもらえている気がします。
もちろん、様々な面で苦労もされたでしょう。いくつになっても未知の世界に飛び込む姿勢、ぜひ見倣いたいものです。
共通して、卒業後の「夢」を語られている点も、素敵だなと思います。
大学はゴールではなく、これからの新たな目標に出会える場所でもあるのだということを、改めて私達に教えてくださっているように思えます。
【日本という国からの卒業。】
■「晴れ着も国際色豊か 別府・APUで卒業式 留学生ら709人学舎に別れ」(西日本新聞)
別府市の立命館アジア太平洋大学(APU、モンテ・カセム学長)の卒業式が13日、同市のビーコンプラザであり、27カ国・地域の留学生215人を含め計709人が慣れ親しんだキャンパスに別れを告げた。
約2800人の留学生が学ぶAPU。会場には、スーツや振り袖姿のほか、さまざまな民族衣装を着た卒業生が並んだ。それぞれ赤いガウンと角帽を身に着けて和やかな表情で式に参加。海外から駆けつけた両親らの姿も目立ち、APUならではの国際色豊かな卒業式となった。
カセム学長が「希望を抱くこと、臨機応変に対応すること、他人を敬うことが、ここを巣立つ若者たちに持ち続けてほしいAPUの精神です」と英語で激励。学生を代表してベトナム出身のフィン・フォン・ミンさん(23)が「市民のみなさんのおかげで、日本文化の習得や新しい環境に適応でき、さまざまなチャンスをつかむことができました」と日本語であいさつした。
(上記記事より)
日本で学ぶ留学生は少なくありません。
今春も上記のAPUのほか、日本中の多くの大学で、留学生の方々が卒業を迎えられたことでしょう。
留学生にとって卒業は、大学だけでなく、「その国からの卒業」をも意味します。
期待と不安の中で異国にやってきたその日から、多くの友人を得て、見事に学業を修めて目的を果たし迎える、卒業の日。日本人の学生とはまた違った、様々な想いが去来していることと思います。
卒業後、何年経っても、日本という国や、そこで知り合った人々は、彼らの中で大きな意味を持ち続けるのだろうと思います。
こうした卒業の風景を日本中で積み重ねていくことが、次世代の社会をつくる力になっていくのかもしれません。
以上、メディアの報道の中から、卒業式関係の話題を、2回に渡ってご紹介させていただきました。
ここで取り上げられたのは、ほんのわずか。本当は、卒業生の数だけドラマがあるはずです。
学ばれたことや、得られた仲間達を大切にしながら、これからもぜひ、がんばってください。
卒業された皆様、おめでとうございます。
マイスターでした。
※この記事は、現役高校生のための予備校「早稲田塾」在籍当時、早稲田塾webサイト上に掲載したものです。