大学入試のしくみ(2) 入試で問われない科目の知識は、入学後も不要?

マイスターです。

昨日は、「大学入試の受験科目には、どういう根拠があるんだろう?」ということについて考えてみました。

大学入試のしくみ(1) 国立大の間で、センター試験の科目絞る動き

今日は、その続きです。

大学入試の科目設定には、どういう意味があるのでしょうか。
その前に、まず大学入試自体の役割を考えてみましょう。ちょっと考えて思いつくのは、以下の3つあたりでしょうか。

1:学科の入学定員に合わせて、受験者を絞るため

2:入学後の学習に適応できる学力を備えているかどうかを、大学側が判断するため

3:大学の考え方を、試験を通じて受験者に知ってもらうため

1の「受験生を絞る」というのは、受験申込者が定員を超えたときに意味が出てくるものですね。
では定員割れをしている場合、入試は不要かというと、そうもいきません。2で挙げたように、最低限の学力を備えていない学生を入学させるわけにはいかないからです。

なお忘れられがちですが、3も実は入試の重要な機能だと思います。これは特に、近年普及しつつある「AO入試」で重視されている部分でしょう。

さて、数を絞るだけが理由なら、別に3科目でも5科目でもいいはずです。
こう考えてみると、主として「入学後の学習に適応できる学力を備えているかどうかを、大学側が判断するため」に、必要な科目の学力を試験で問うているんだなとわかります。

で、ここからがややこしいのですが、
高校で学ぶ内容と大学で学ぶ内容は、実は基本的には、関係がありません。
でも、大学では、高校までに学んだおよそすべての内容が、必要になります。

うーむ、ややこしいですね。頭の上に「?」マークがいっぱい出てきそうです。

各教育機関の役割を定めている法律、「学校教育法」には、こうあります。

【学校教育法】
第17条 小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。
第35条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。
第41条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。

この法律を見ていただけるとわかりますが、中学校のカリキュラムは、小学校で学んだ内容の上に積み上げられることになっています。
高校のカリキュラムは、中学校で学んだ内容の上に積み上げられることになっています。
これが、日本の教育システムの基本コンセプトです。

では、大学はどうでしょうか。「高校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、大学教育を施すことを目的とする」でしょうか?

【学校教育法】
第52条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

驚くべきことにこの通り、高校のコの字も出てきません。
そう、大学というのは、高校までの学習内容からは、基本的に独立した教育機関なのです。

大学とは、自然界の真理や、私達の社会の本質を解き明かし、そこにある様々な問題を解決するための機関です。そのために必要な知識が、必ずしも高校の科目と対応しているとは限らないのです。

ぶっちゃけて言ってしまうと、大学の学びと、高校までの学びは、仕組み上、まったくつながっておりません。接続されていないのです。
ですから、数学や英語、世界史や日本史、物理や化学といった科目名称は、(数学科や物理学科にでも入学しない限り)そのまま大学のカリキュラムに出てくることはありません。

しかし、では高校までに学ぶ内容は、大学では必要がないのかというと、そんなこともないのです。
高校で各科目の基礎を学んでおかないと、例えばデータの分析もできませんし、研究レポートも書けません。歴史や政治経済を知らなければ、基本的な議論もできません。語学力がなければ調べ物に困ることになります。

マイスターは建築学科卒ですが、高校で登場した科目はほぼ全部、結果的に大学で求められました。
入試では数学・物理・英語の点数しか問われませんでしたが、実際には、卒業するためには他の科目の知識も必要でした。
その意味では、高校で学んだ内容のほとんどは、大学でも必要なのです。

「なんだ、受験科目になくても、結局、必要になるんじゃないか」

はい、なるんです。
(ですから高校生の皆さんには、受験に必要な科目だけじゃなくて、まんべんなく学んで欲しいのです)

でもそう考えると、大学の受験科目の絞られ方は不自然ですね。確実に必要になる知識なら、なおのこと受験で問えばいいのにと思いませんか。
AO入試のように、学ぶ意欲で人材を評価する仕組みというのであればまた別ですが、そうではなく科目の学力で人を見るのであれば、必要なはずの科目を受験で課さないのは、おかしな話です。

実のところ、本来の大学入試の意味を考えれば、もっと受験科目は多くたって良いのです。
5教科どころか、美術やコンピューターなど、他の科目が入っていても良いわけです。

それを3教科、5数科と絞っているのは、率直に言ってしまえば、大学側の都合です。

「受験科目が少ない方が、受験生にとっては受けやすくなる。大学の難易度を表す『偏差値』の数字も上がって、データ上、ライバル校に見劣りしない位置に立てる。」

というわけです。

「受験生の負担を減らすために、敢えて科目を減らしている」と説明する大学もありますが、これはおかしな話です。だって入学後には、必要になる知識なのですから。今学んでおくか、後で学ぶかの違いだけですよね。極端な負担にならない程度に、入学後に必要になるレベルまでを入試で調べればいいのです。

このように、受験科目の絞り込みは、教育上の理由ではなく、競争上の理由によるところが多いのです。しかも近年、少子化に伴う大学間の競争激化によって、科目数はさらに減少しています。

こういう状況を生み出したのは、他でもない、今の高等教育にかかわっている大人達です。

入学後の学びの違いを教えることなく、安易に偏差値という数字で大学を序列化し、一つでも数字のいい大学を薦めるようなシステムを作ったのは大手と呼ばれる受験予備校の関係者などですし、それをここまで普及させてしまったのは残念ながら高校の教員です。

未だに、壁に大学の入学難易度表を貼って受験指導をしている高校教員は、大勢います。
受験科目を安易に絞らない大学ほど良心的な大学なんだ、ということを生徒に語らないどころか、受験のためという理由で、学校ぐるみで履修逃れを行っていたような高校すら、ありました。

もちろん、こうしたシステムに媚びる形で受験科目数を削っていった大学の方にも、責任がないとは言えません。
まだ入試科目を削った分、入学後にしっかり必要な知識を教えるという仕組みを持っているところはいいのです。本来なら必要なはずの知識を、受験で問わなかったのだから、入学後にみっちり学んでもらう。これなら筋が通っています。問題は、そういう仕組みすら整えず、受験科目だけ削っている大学です。

マイスターが思うに、受験科目を減らすのなら、入学後のカリキュラムは変わるのが当然です。
安易に科目を減らす大学の関係者に限って、そういった対応をせず、「ここ数年の新入生は、学力が低下していて使い物にならない」なんて言っていたりします。
事実、大学の「学力低下」の例として良く挙げられるのは、文系大学生の数学力と理系大学生の文章力です。どちらも必須能力のはずなのに、受験で問われないばかりか、入学後も学ぶ機会がないため、力が身についていないのです。

では、どうすればいいでしょうか。
どうしたらこういう入試の状態を変え、もっと素敵な大学教育を実現できるだろうかと、マイスターはいつも考えています。

考えてみれば、大学の方も気の毒ではあります。
大学で何かをやろうとするとき、必ず誰かが言うのは、「でも、受験生に敬遠されるんじゃないか」ということです。それはもう、マイスターが見ていて不憫に思うほど、大学の方々は受験者の顔色をうかがっています。
その結果、本当は教育上、必要だと思うようなことも、大学は行動に移せないということがおきているのです。

そうではなく、本当に良心的な教育を行おうとする大学であれば選ばれる、という仕組みを、新たに作り直したいとマイスターは思います。

仕事柄、大学の関係者の方々とお話をする機会も多いのですが、こういった教育に対する姿勢や体制に自信を持っているところは、話を聞けばすぐにわかります。
大学の取り組みについて、熱い思いを語ってくれる人たちがいる大学です。
個人的には、入学後のことも考えて受験を行っているこうした大学を高校生には薦めていますが、それを、もっと明確な仕組みとして世に問うてみたいと思っています。

まだまだ漠然としたミッションかも知れませんが、それが、日本の大学教育をより強く、魅力あるものにしていくために、自分たちにできることなのではないかと思うのです。

以上、マイスターでした。

※この記事は、現役高校生のための予備校「早稲田塾」在籍当時、早稲田塾webサイト上に掲載したものです。