マイスターです。
■「平成18年度に高等学校の最終年次に在学する必履修科目未履修の生徒の卒業認定等について(依命通知)」(文部科学省)
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/18/11/06110220.htm
教育界を揺るがす未曾有の事件となった「履修逃れ校」発覚問題は、上記のように決着しました。
この結論に対する評価は、人によって様々だと思います。
文部科学大臣は、当初から「スピード感を持って」対処するというコメントを出していましたが、本当にスピーディーに結論が出されました。はじめから現実的に実行可能な着地点を探ることにこだわったことで、高校生や高校教員達の負担を最小限に食い止めたというのが、好意的な評価です。その一方、本質的で大事な議論はほとんどすっ飛ばして形式的なだけの解決法になってしまったという批判もあるようです。
決まったことは仕方がありません。泣いても笑っても、本年度は上記の方針で乗り切るしかありません。ただ来年以降、文科省も教育委員会も各高校も、そして大学も、同じ問題を繰り返さないようにしなければなりません。
一体何が問題だったのか……これを根本から考えなければ、また同じことは起こります。
というわけで今日は、各新聞社が、社説で「履修逃れ校」問題をどのように論じているかを調べてみました。
【学校が生徒に与えたダメージは大きかった】
■「鳴潮(11月3日)」(徳島新聞)
http://www.topics.or.jp/Old_news/m061103.html
何ともすっきりしない結末だ。高校の必修科目未履修問題で、政府が決めた救済策である。(略)きちんと履修している九割以上の生徒が、「不平等を感じる」「やったもの勝ちという印象だ」と怒るのも当然だ。
一方、大学受験を目前に控えた未履修の生徒の負担を考えると、やむを得ない決着ともいえるだろう。
何より唖然(あぜん)とさせられたのは、徳島文理高のケースだ。三年生の百九十七人全員が未履修で、それも二百四十五時間とか三百十五時間とけた違いに多い。しかも県の二度にわたる調査に対して、「問題ない」と虚偽の回答をしていたというのだから、あきれるほかない。これでは、いい大学に入ることがすべてだ、必要ならうそをついてもかまわない、と生徒に教育しているようなものではないか。
もちろん生徒に責任はない。受験シーズンを控え、受験科目以外の七十時間もの補習は考えただけでもぞっとするが、フェアな形で受験に臨めるよう、早く気持ちを切り替えることも大事だ。
(上記記事より)
マイスターが見つけた新聞社サイトに限って言うと、各紙の社説で共通するのは、
「生徒は純粋に被害者」
「高校と教育委員会は(生徒から見て)加害者」
……という前提で書かれている点でした。
上記の徳島新聞社説も、学校側を厳しく批判するものです。
マイスターの考えも基本的には同じです。
様々なブログを見ていると、「(履修逃れ校の)生徒は得していたのだから、補習を受けることを気の毒とは思わない。これで対等になる」といった書かれ方も多いようですが、本当に対等でしょうか。教員から「これで問題ない」と説明され、それを信じて学習計画を立ててきたのに、今になって急に「実は、君たちは今まで他の人達より有利だったんです。だから、残りの時間を使って補習を行います。でも、これで対等ですから」なんて言われて、納得できるものでしょうか。どうしてもっと早く言ってくれなかったの、先生はこの履修で問題ないと説明していたのに、というのが大多数の高校生の感想ではないでしょうか。
【文科省や教育委員会の責任も見過ごせない】
■「【読売社説】[必修逃れ救済]『“騒動”で見えた高校教育の課題』(11/2付)」(読売オンライン)
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061101ig90.htm
今回の騒動は一体何だったのか。その検証作業が必要だ。
必修逃れは5年ほど前にも広島、兵庫などの高校で発覚した。文科省は各教委の担当者を集めた会議で口頭指導するだけで、全国調査などは行わなかった。
必修逃れは、多くの高校で「公然の秘密」として次年度に引き継がれ、教委には虚偽の履修届が提出されて来た。
その教委も「知らなかった」では済まされまい。必修逃れの高校の校長が後に教育長になったところもある。
規制緩和の一環として、教委の廃止論も出ていた。今回、必修逃れや「いじめ自殺」への対応のまずさが露呈したことで、教委の監督機能や問題対応能力を高めるための検討が「教育再生会議」で始められることになった。教委の役割を、根本から議論してほしい。
学習指導要領をどう見直すか。受験偏重の今の高校教育をどう改善するか。行政と現場に突きつけられた課題だ。
(上記記事より)
さらに一歩進んで、教育委員会や文部科学省など、「学校を管理する側の責任」に深くつっこんでいるのが、上記の読売の社説です。
今回の騒動では調査が進むにつれ、教育委員会のずさんな管理体制が露呈されていきました。一体教育委員会は何をやっていたの?……と、誰もが思ったはずです。そんな読者の疑問を代弁するような記事です。
安倍首相による教育改革の動きを意識した社説でもあります。
【学習指導要領の役割や必修科目の意義を今一度考えるべきだ】
■「【社説】高校で何を学ばせるのか 未履修対策(11/3付)」(西日本新聞)
http://www.nishinippon.co.jp/nnp/column/syasetu/20061103/20061103_001.shtml
高校の学習指導要領は、豊かな人間性や社会性、自ら考える力を育てることなどを基本方針に掲げている。必修科目はこの方針を踏まえて、生徒が学ぶ学習内容の最低基準を盛り込んだものだ。
高校生としての「確かな学力」を身につけるには、少なくとも必修科目をすべて履修することが前提という判断だ。
最近は歴史や地理に関して基礎的な知識がなく、簡単な読み書きもできない若者が増えている。分数ができない大学生も珍しくないといわれる。
入試偏重の授業の中で、偏った知識しか持たない生徒ばかりが巣立っては困る。高校で生徒に何を学ばせるのか。教職員は、その原点に返ってカリキュラムを編成してもらいたい。
今回の未履修問題で、高校で繰り広げられている授業実態を初めて知った人も少なくない。国際社会に生きる日本人としての基礎・基本の知識を身につけるためには、世界史だけでなく日本史も必修にすべきだとの意見も聞かれる。
これからの高校生には、何をどれだけ教えればよいのか。中央教育審議会の部会では、指導要領の見直し作業も進められている。
文科省はこの未履修問題を機に、高校教育の在り方について幅広く国民の意見を聞いてみてはどうか。(上記記事より)
■「明窓:教育偽装(11/3付)」(山陰中央新報)
http://www.sanin-chuo.co.jp/column/modules/news/article.php?storyid=333855034
不遇な教科というのもある。大学入試の受験科目から外れているために、教育現場でお荷物扱いされている教科である。そのお荷物を軽くしたい、と全国の高校で必修科目の未履修問題が広がっている。これだけは学ばなければならないという履修基準が受験競争に踏みにじられている。
(略)進学準備でどんな科目が冷遇されやすいのか。県内では世界史など地理歴史教科を中心に授業時間を減らされ、新設科目の「情報A」も犠牲となった。入試に関係がなかったり、あるいは覚えることが多く生徒から敬遠される科目が狙われやすい。(略)ゆとりという建前が受験競争の現実にさらされて偽装を生む。建前を現実に貫いてこそ真の教育と、不遇に置かれた教科が叫ぶ。(上記記事より)
国際感覚を身につけた日本人を育成するための世界史必修化なのに、受験を優先させた結果、その大切な意義が犠牲になってしまった、という指摘も、各紙の社説で見られました。どうして世界史が必修なのか。どうして新しく「情報」の授業ができたのか。そういった学習指導要領の意図が理解されていない、ということを嘆くものです。
ここから、指導要領の位置づけを見直した方がいいのでは?という指摘につなげている社説もいくつかありました。
【今後は、大学入試のあり方も見直す必要性がある】
■「社説:履修不足救済 大学入試を大胆に見直せ」(MSN毎日インタラクティブ)
http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/archive/news/2006/11/20061102ddm005070096000c.html
高校の履修不足問題は、補習コマ数を条件に応じ弾力的に軽減することで調整がついた。超法規的措置ともいうべき対応で、決してすっきりしたものではない。入試期を前に大混乱を避ける緊急対応として受け止めるしかないだろう。
だが、これで一件落着ではない。問題の本質的な事柄は何ら論議されておらず、当面の応急手当てをしたに過ぎないのだ。また学校、教育委員会、文部科学省間でうやむやにせぬよう責任の所在もはっきりさせなければならない。
問題が富山で発覚し、一気に全国に広がり始めた時、これは高校教育や大学入試のあり方などを多角的に掘り下げて見直す機会にすべきだと私たちは提言した。
いくつかの大きなテーマがそこにはあるが、まず早急な大学入試の全面的見直しを挙げたい。なぜなら、カラ履修は多くの学校が言うように「効率よく入試の準備を生徒にさせるため」積極的に実施されたのであり、入試が今のままなら、もっと巧妙な偽装がこの先起きかねないからだ。
(略)
現在、難関校と呼ばれる大学も含め、多くのところで入学生に対し高校レベルの補習教育が行われているという実態がある。このためセンター試験の科目を増やす傾向にあるが、それよりもっと抜本的な改善が必要だ。
かねて大学の多くは、じっくり手間をかけて入学者を選抜する伝統もノウハウもとぼしい。入試担当になると「研究時間がなくなる」と不満を言う教官もいる。自前の問題作りさえできず、予備校に発注した大学もある。だが、それぞれの大学に教育理念があるならば、それにふさわしい力や適性、意欲を持った若者たちを深く幅広い方法で見抜くことこそが、大学の土台であるはずだ。
現実にそんなことをしていては受験生が敬遠するという意見もあるだろう。しかし、効率よく、たくさんの受験生が受けやすく、という仕掛けの結果が今露呈した大量履修不足ではないか。政府は学校への監視強化をいうが、それは解決にならない。問題の根にある大学入試改革に本腰を入れてこそ責任を果たすといえる。
(上記記事より)
今回、ほとんどの新聞が、「大学入試も見直すべき」といった内容のご意見を社説に盛り込んでいるようでした。どのように見直すべきか、という点につっこんでいる新聞はほとんどなかったのですが、現在の入試が完全なものでないのは確かなので、この機会に見直しをはかるのには賛成です。
履修逃れ校問題の報道が非常に充実していた「MSN毎日インタラクティブ」も、上記のように社説でこの点を指摘していました。単にセンター試験の教科数を増やすなどではなく、もっと根本的な対策が必要だと言っています。(新聞によっては、「教科数を増やせ」と言っているところもありました)
とはいえ、この点については、具体性に乏しい社説がほとんどですので、どこをどう見直すかは、今後大学が考えていく必要があります。
というわけで、各紙の社説を並べてみました。
実際には程度の差はあれ、各紙ともだいたい上記に挙げたような点は指摘しているようです。
■「【社説】必修漏れ 高校で何を学ばせるか(11/3付)」(Asahi.com)
http://www.asahi.com/paper/editorial20061103.html
……と、もっとあれこれ比較をしようと思いましたが、既に長くなってきておりますので、実際に皆様に、各紙の社説を読み比べてみていただくのが良いかと思います。
期間限定で社説をオンライン公開しているところもいくつかあるようでしたので、ご覧になる方はお早めにどうぞ。
以上、マイスターでした。
http://www.stop-ner.jp/index.html
↑この教育基本法「改正」情報センター
サイト内の「声明」に、「未履修問題」の
核心を突いたメッセージがありました。
ご参考まで。
未履修問題は、生徒という観点がまったく抜け落ちた結果に他ならない。
それを、学習指導要領の問題にすり替えるのは責任回避に他ならない。
未履修問題をきちんと考えるとなると、必修とはなんぞや?学習指導要領とは?と
掘り下げないことには、表面をなぞってはい
おしまい!と、それこそ責任のありかは
なぞのままです。
教育基本法は、戦前戦中の軍国洗脳学校教育
を反省して、国家は教育に金は出しても口は
ださないということを約束(主権は国家権力
ではなく国民に)した法律です。
教育勅語の時代の「従順な戦士養成のための教育」から、
「人格の完成・人権尊重のための
権利としての教育」へと、教育基本法制定によって変わる
はずでした。
つづきます
戦争直後は教育委員も「公選」で選ばれ、
市民の声によって学校が運営されていました。
しかしGHQが撤退するや次第に自治体の長の指名で委員を決めたり、教育基本法は無視して
下位法の学校教育法(学習指導要領)
によって再び国家が教育に口を出し拘束し、
様々な支配をし続けてきました。
教育基本法は名ばかりで遵守されず、
「人格の完成」のためではなく、「点数競争
による序列・差別作り・画一教育の強制」を目的とした内容で行われています。
学校を巡る様々な問題は、この教育基本法を無視したゆがんだ教育方針
(優越感・劣等感は育つが
真の自己肯定感は育たない)が原因で起きていると言えるでしょう。
いじめ(精神的・肉体的虐待)やそれによる
自殺・他殺、そして未履修問題も然りです。
うーん、全面的に賛成とまでは行きませんが、確かに一理ありますね。
まあ、あらゆる法律の基本である憲法を解釈、運用でもてあそんで実質的な軍隊を持つような国ですから...
再独立の1952年から「もやは戦後でない」の1955年までの間辺りから徐々に道を踏み外したひずみが近年ごそっと噴出してきた感じですね。
どうやって修正すれば良いんでしょうか。どなたか道を示してください。
>どうやって修正すれば良いんでしょうか。
まずは「教育基本法改正案」の廃案と思います。
教育基本法を「改正(骨抜きに)」するのでなく、
それを本来の目的(人格の完成・権利としての教育)に沿って「きちんと遵守」することに尽きるでしょう。
文科省は敗戦直後の初心に帰り、
きちんと教育基本法の精神にのっとった
教育整備をするべきです。
http://www.kyokiren.net/index