茂木健一郎さんのTwitterでの発言が、様々なところで議論を呼んでいるようです。
っていうか、偏差値とか勝手に計算しやがっている、予備校って、社会に害悪しかもたらさない存在だから、マジでつぶそうぜ。ふざけやがって。お前らが勝手に計算している「偏差値」とかやらで、どれだけ多くの18歳が傷ついていると思っているんだ、このクソ野郎どもが。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 3月 8
つぶれろ、駿台、つぶれろ、代ゼミ、つぶれろ、河合塾、つぶれろ、東進ハイスクール、つぶれろ、ありとあらゆる、偏差値を計算する、くされ外道予備校ども、みんなつぶれろ! 日本の10歳、11歳、12歳、13歳、14歳、15歳、16歳、17歳を、偏差値奴隷から解放せよ!
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 3月 8
リツイートの回数からもその反響の大きさが伺えます。facebookなどでも、彼のこの発言を巡り様々な議論が行われているようです。以下のような記事も出てきました。
■「有名受験予備校を名指しで『つぶれろ!』茂木健一郎氏の偏差値入試批判がネットで物議」(J-CAST NEWS)
反響の大きさからか、その後、いくつか補足のツイートもされています。一連のツイートが以下にまとめられていますので、ご興味のある方はご覧ください。
■「茂木健一郎氏 @kenichiromogi 第1189回【ぶっつぶせ、偏差値入試!】連続ツイート」(togetter)
自分も、様々なところで高校生に進路の話をし、彼らの進路づくりの支援となる活動を行っておりますから、茂木さんの言いたいことはよく分かります。
多くの方が知るとおり、「大学入試」の存在が子ども達の学びに対して与える影響は小さくありません。
小、中、高と模試や受験を繰り返していくなか、より「良い」大学に入れる可能性を示すのが「偏差値」だと、若者達はそれとなく塾や学校で教えられます。そのうち偏差値が、自分自身の価値を示す数値であるかのように感じられてきたりするわけです。実際に、入試難易度が低いとされる大学に入学した学生の中には
「どうせ自分は偏差値が低い大学で学んでいるから」
……と、他のあらゆる活動に対しても自信を失ってしまっている人がしばしばいます。
(そんな学生に「そんなことはない。あなたにはあなたの良さと、あなたならではの戦い方がある」と伝えて自信を持たせるのが、大学に求められている大切な役割の一つです)
本来、好奇心を抱く分野も、得意なことも、ひとそれぞれ違います。教育の目的の一つは、それぞれが持つ様々なスキルや関心を伸ばし、多様な才能を開花させることでもあります。しかし実際には、この大事な成長の期間に「良い大学に受かるための勉強」が幅をきかせてしまう。この勉強がいまの日本では、「模試での偏差値アップ」と限りなく近い意味だったりするわけです。
このあたりに対して、茂木さんは強くNOを言いたかったのでしょう。普段から幅広い層の大学生や高校生と接している身として、私もそこには強く共感します。
また茂木さんは補足として、以下のようにもツイートしています。
予備校の各大学の学部、学科による偏差値表ほど、日本の大学入試の愚かさを表しているものはないでしょう。結果として、大学の評価が、そこで得られる実質的な教育、研究環境ではなく、入試の難易度という単一基準になっている。企業の新卒一括採用でも、その指標が踏襲されています。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 3月 10
結果として、ある偏差値の大学の入試に受かったという履歴が、その人物の実質的なパフォーマンスではなく、社会の中でのポジションを担保する指標になっている。これは、フェアな競争とは言えません。どのような学習をして、スキル、経験を身につけたかという実質が省みられなくなっている。
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2014, 3月 10
これも、まったく同感です。
「大学」と一口に言っても、大学によって学びの中味は異なります。世界的な研究者を養成しようという大学もあれば、グローバルリーダーを養成しようという大学もある。同じ経営学部という名前でも、高度な金融理論を駆使するエリートを育成しようという大学もあれば、中小企業の現場でエースになれる人材の育成をミッションに掲げる大学もあります。
ある分野では東京大学より水準の高い教育を行っている大学だってあるでしょう。
それぞれ教育ミッションに合わせて、入学後のカリキュラムや、学びの方法論が違います。入試で学生を選抜する方法も、それぞれ違っています。つまり大学は、一つのモノサシでは優劣を測れないのです。しかし「偏差値」という指標は、これらにまるで共通の、たったひとつのモノサシがあるかのような思い込みを持たせてしまうことがある。大学の価値を、ひとつの指標の上下で示せるかのように思い込ませてしまうという意味で、予備校が作成する偏差値ランキング表は、非常に罪深い存在です。
各大学がAO入試によって様々な選抜方法を試したり、東京大学や京都大学が推薦入試の導入を検討したりと、ひとつのモノサシの序列を壊す取り組みは進んでいます。それでもなお日本において「偏差値」という数値が持つ意味合いが、非常に大きいものであることは変わりません。AO入試でも人気なのは、一般入試での高偏差値大学だったりすることからも、それはわかります。
* * * * *
……ところで、お会いすることはないでしょうが、もし茂木さんとお話しする機会が得られたなら、私のささやかな体験の一部をシェアしたいなぁと、この一連のツイートを拝見した上で思いました。
私はこれまで日本の高校生と一緒に日本中、世界中の様々な場所に行きました。あるときはスタンフォード大学。あるときは清華大学や北京大学。台湾大学にも行ったことがあります。日本の大学でロボット工学などを学んだ高校生達が、その成果を英語でプレゼンするためです。いずれも現地の学生達から、拍手を浴びました。
あるときは、タヒチにあるMITのラボで、水中ロボットの実験とプレゼンをしました。違う年にはハワイ大学マノア校でも同様の活動をしました。日本の高校生達の活躍ぶりは、堂々たるものでした。
CAN-SATをつくって大学生達の大会に参加したり、能代にあるJAXAのロケット実験場を見学しに行ったりもしました。宇宙工学に関する講義を大学の教授にしていただく機会もありました。
先端生命科学の学会で学術発表する高校生も、毎年のように見ていました。アフリカやアジア各地域出身の大学生と一緒に高校生がワークショップをする取り組みもあります。早稲田大学の元総長と一緒にドイツ各地をまわりながら近現代史を学ぶ試みをしたこともあります。このように書き出したらキリがありません。
いずれも高校生達が、学校教育の枠組みにとらわれず、自由に学びたいことを追求できるようにと行った取り組みです。
こうした取り組みについてお話しすれば、茂木さんはおそらく「そう、そういう教育が必要なんだよ!」なんて言ってくださるんじゃないでしょうか。しかし実は上記は、私が以前、ある予備校に籍を置いていたときに担当していた取り組みなのです。
自分は私立大学の職員から、予備校の研究員に転職しています(今はその予備校も辞め、フリーランスですが)。大学で働いていた頃は正直言って、自分も予備校業界についてあまり良いイメージは持っていませんでした。しかし実際にその教育の現場に入ってみると、自分が偏った思い込みに縛られていたということに気づかされました。実に多様な教育が試行されていたからです。
上記の取り組みは私が在籍していた予備校のものですが、別にここで特定の予備校を賞賛するつもりはありません。ベクトルや方法論は少しずつ違うかもしれませんが、実は多くの予備校が、偏差値では測れないアカデミックな力やリーダーシップなどを育む取り組みを、それぞれの企業活動の中で行っています。
おそらく茂木さんはこうした動きをご存じでない、あるいは意図的に切り離した上で、「予備校は悪の産業」「害悪」「みんなつぶれろ」、と断じているのだろうと私は思ったのです。
そもそも、公教育よりも圧倒的に自由度が高く、教育の内容も手法も多種多様な民間教育を、「○○はぜんぶダメ」なんて一言でバッサリ斬れるわけがありません。日本の大学や大学教員も、海外との比較で色々と批判を受けることはありますが、だからといって「日本の大学は全部つぶれろ」とか、「日本の学者は全部ダメ」なんて言い方をされたら、茂木さんだってきっと怒るでしょう。
だいたい予備校には、日本全国で同じことを学ばせる学校教育に反発して、わざわざ民間教育を選んだ人も多いのです。中を見てみれば、ユニークな取り組みはたくさん見つかります。
茂木さんが訴えたかったことは何となくわかります。憤りを感じている部分にも共感はできます。ただ、そこから「河合塾つぶれろ」といった発言に行ってしまうことには、危うさを感じた次第です。
自分に自信を持てない大学生がいるのは、果たして本当に、予備校だけのせいでしょうか。教育に関する議論では、いま起きている問題のすべてを文科省のせいにする人をよく見かけますが、それとあまり変わらないような気がします。仮想敵を設定し、批判することで支持を集めるという手法は昔からあるものでしょうが、予備校がつぶれても、おそらく本質的な問題は解決しません。
(facebook上の議論で、大学関係者の方が「予備校が大学入試に影響を与えているのではなく、大学入試が予備校のサービスに影響を与えているので、予備校に非難の矛先を向けるのはお門違いでは」とコメントされていました。私も同感です)
また、偏差値という数字をなくせば、事態は良くなっていくのでしょうか。偏差値という統計上の数値は、自分の位置を知るためのただの目安です。例えば総合的な評価で合否を決めるアメリカの大学にも、この大学に入るにはSATのスコアで何点くらいは欲しいといった数字の目安はあります。あくまでも目安にすぎませんから、テストのスコアが足りなくても他の部分が優れているなら合格するという点が日本と違いますが、それでも目安はあります。目安が何もなくなったら、高校生側がきっと困るでしょう。
(各種試験のスコアを進路選択のために使うな、とアメリカの高校のカウンセラーに言えば、たぶん「何でだよ!?」と言われることでしょう)
偏差値というたった一つのモノサシで人間の能力を測るような社会はおかしい、と茂木さんは言いたかったのでしょう。大学業界に対しては、入試の多様化を促すような発言をされていますし。
それなら今回は、「これまでの教育に影響を与えてきた予備校業界は、いいかげん、新しい教育にシフトせよ」と言うべきでした。実際、既にシフトし始めている予備校だってあるわけですから、そうした予備校は自信を持ってそのままシフトを進めることでしょう。
または、むしろどこかの予備校を味方につけて、茂木さんが理想と考える教育のパイロット版を一緒につくってしまう方が建設的で素敵です。彼がTwitterなどで募集すれば、おそらくいくつかの予備校がすぐ手を挙げるでしょう。
いま教育についてされている議論は20年、30年くらい前から、議題として挙がっています。それなのに未だ解決しないのは、論じる人や批判する人ばかりで、実際にアクションに移す人が少ないからです。茂木さんほどの優れた科学者なら、きっと他の人にできないアクションが取れると思います。その際のパートナーとして最も柔軟に、かつ迅速に動いてくれるのは、(皮肉なことですが)予備校だと思います。
教育の問題は、「誰かのせい」にしても解決しませんよね。
皆さんは、どう思われますか?