「演技」を教える国立の教育機関

マイスターです。

私立大学では学べても、国立大学では学べない内容があります。
逆に、国立大学では学べても、私立大学では学べない内容もあります。

その大学にしかないような希少性の高い学部学科や、新しい内容の学部学科にはそういうものもありますが、中には「え? これって国(私)立大学では学べなかったの?」と思うような、意外なものも。

というわけで、一見すると大学とは関係がない話題のようですが、こんな記事をご紹介します。

【今日の大学関連ニュース】
■「新国立劇場研修所の1期生、プロ俳優へ 井上作品で船出」(Asahi.com)

新国立劇場の演劇研修所で3年間学び、今春修了した1期生15人が、プロの俳優として歩み始めた。税金で育てられた初めての舞台俳優たち。このうち3人が、15日開幕のこまつ座公演「闇に咲く花」に出演。恩師の研修所長・栗山民也の演出で、井上ひさしの戯曲に挑む。
(略)研修所は05年春、東京・初台の劇場からやや離れた西新宿の廃校利用施設「芸能花伝舎」内に開かれた。「NNTドラマ・スタジオ」の愛称を持つ。演劇部門芸術監督だった栗山が「世界に通用する俳優を育てたい」と奔走し、オペラ、バレエ部門の研修所を追う形でつくられた。
国立劇場の歌舞伎や文楽の研修生とは異なり、定期的な出演の場を得られる保証はない。一部は所属事務所が決まったが、フリーで活動する修了生のため、「NNTアクターズ」として、研修所がマネジメントを支援する。
(上記記事より)

新国立劇場は、オペラ、バレエ、現代舞踊、演劇等の現代舞台芸術を公演するための劇場として、平成9年、東京都渋谷区にオープンした、新しい国立の劇場です。
もしかすると、観劇に行ったことがある人も、いるかもしれません。

そしてこの新国立劇場に併設された演劇研修所が、新国立劇場演劇研修所(NNTドラマ・スタジオ)です。

■「新国立劇場演劇研修所(NNTドラマ・スタジオ)」

上記の記事では、「税金で育てられた初めての舞台俳優たち」という表現が使われています。

そう、実は日本には、大学を含め、演技を学ぶための国立教育機関は長く、存在していなかったのです。

「芸術」を学ぶための学校は少なからずあります。芸術系の学部を持つ国立大学では、音楽や絵画、工芸デザイン、建築、現代アートまで、様々な芸術が学べます。
しかし、なぜかパフォーミング・アーツ、つまり舞台芸術の担い手を養成することに関しては、ぽっかり抜け落ちていたのです。
正確に言うと、伝統芸能を守る人材を育成する組織はあるのですが、現代演劇や映画などで活躍できる俳優を育成する組織が、国立機関にはないのです。
(よく言われる例なのですが、東京芸術大学には美術学部と音楽学部があっても、演劇学部はありませんよね)

イギリスやアメリカなど、国が演劇の養成学校を運営している例は多くあります。
日本には長い舞台芸術の伝統も文化もありますし、演出家や俳優でも、世界的に活躍する人材が多数います。コンテンツの力で世界と勝負する、なんていう国の方針もあります。
でも、そんな日本が、国を挙げて俳優を育てるということをやっていないのです。

どうして国立大学に演劇系の学部学科が存在しないのか、理由は不明です。
かつて現代演劇は「アングラな文化」、権威を批判する傾向のある文化と見なされたりした時代があり、そのために国から忌避されていた、という説を聞いたことがあります。
また日本では、劇団ごとにまったく違う劇団独自のトレーニング法や演劇理論が使われており、共通見解としての俳優養成カリキュラムを作ることができなかった、なんて話も聞いたことがあります。
どちらの説も、真偽のほどは分かりません。

とにかく、そんな状況に危機感を抱いた演劇関係者の声もあり、初めて国が、「プロの俳優」を育てるために作ったのが、新国立劇場演劇研修所(NNTドラマ・スタジオ)だというわけです。
日本の演劇界では、画期的な出来事です。

大学ではなく、劇場併設の研修所にしたのには、色々と理由があるのでしょう。メリットも多そうです。
ただ、この新国立劇場演劇研修所が成果が上げていったら、いずれ国立大学にも、演技を学ぶ学科やコースが生まれるかも知れません。

何しろそれまで無かった教育機関ですから、新国立劇場演劇研修所には、俳優養成を通じて、国立機関として教え研究するに相応しい普遍的かつ実践的な俳優養成カリキュラムを練り上げていく……という使命もあるはずです。
そういった基礎カリキュラムが固まれば、いずれ取り入れる大学も出てくるでしょう。

そう考えると、実は大学人にとっても、関係のない動きではないというわけです。
私立大学にはパフォーミング・アーツを学ぶ学部学科がいくつか存在しますが、そんな大学にとっても、新国立劇場演劇研修所の取り組みは気になることでしょう。

ところで、国立大学に「演技」を教える機関がないということは、実は結構大きな問題だとされています。

例えば公立の小中学校に通っていた人の中で、授業中、教科書を用いて近代的な演技のトレーニングをしたという方は、いらっしゃいますでしょうか。
学校で演劇をやる機会はあっても、「演技の仕方」を正課の授業で教わったという人は、おそらくいないのではないかと思います。
学校の担任の先生がたまたま演劇経験者で、その先生からテクニックを教わったという例ならあるかも知れませんが、それは正課の「授業」とは全く位置づけが異なる、「クラス演劇の練習」の延長上のものだったはずです。

日本では、「どういうことをすれば演技力が身に付くのか」といった普遍的な教育メソッドが、まだまだ小中学校まで行き届いていないのです。
というか、そういったカリキュラムを研究開発する機関も、そういった教育を教育現場に取り入れようと動く組織も、あまり無いというのが現状だと聞きます。
本来なら国立大学が率先して担う役割だと思いますが、前述のように日本の国立大学には、演劇を教育研究する学部学科はありません。

一方、国を挙げて演技を教育・研究しているような国では、小学校くらいから、授業で演技について教わります。地元で活動する俳優などと連携し、プロの俳優が授業に加わるという例も聞きます。
海外のビジネスマンが身振り手振りを加えて魅力たっぷりにプレゼンテーションをするのに対し、日本のビジネスマンは資料を棒読みするだけ、なんて話は良く聞きますが、その背景には、「演技教育」の違いがあると言われています。

国際社会で活躍できる日本人を育てるために、まず国立大学に演劇学科を作るべきだ、という意見は、実は以前からあるのです。
新国立劇場演劇研修所は、そういった動きに先鞭をつけるという意味でも、注目すべき事例だと思います。

以上、マイスターでした。

※この記事は、現役高校生のための予備校「早稲田塾」在籍当時、早稲田塾webサイト上に掲載したものです。