大学の教育指針は、国が決める?

マイスターです。

大学の学部新設が相次いでいます。
最近は、生命科学系の学部が多いようですね。
受験生の人気を反映した結果であると同時に、その時代ごとの、学問的なニーズを考えた結果でもあるのでしょう。

たまに、ちょっと周りに流され過ぎかな、という例もないわけではありませんが、時代に合わせて柔軟に変化しようと努力するのは、悪いことではありません。

古いカリキュラムを少しずつ変え、新しいものに変えていく。
大学が持っている、優れた機能の一つだと思います。

さて、今日は、こんな話題をご紹介します。

【今日の大学関連ニュース】
■「大学教育内容に指針 学術会議に審議59年ぶり依頼へ国が一定方向性 文科省方針」(東京新聞)

文部科学省は二十九日までに、大学の学部(学士課程)の教育期間で学生が身に付けるべき知識や技術など教育内容や到達目標を示した指針を、専門分野ごとに策定する方針を固めた。
指針には高度な専門性が求められ、学問の自主性も尊重する必要があるため、科学者の代表的機関である日本学術会議に審議を依頼する予定。大学教育について同会議への審議依頼は記録上、一九四九年以来、五十九年ぶりという。
大学の教育内容は原則として、各大学の自主・自律的な裁量に委ねられている。
文科省は指針に強制力や拘束力はないとしているが、国が一定の方向性を示せば、一連の大学改革で大きな転機になりそうだ。
文科省は、指針策定により学生の卒業認定が厳格になるとともに、各大学の教育内容や実績を確認、評価しやすくなり、大学教育の質向上が図れるとしている。
また大学の教育成果を世界共通基準で評価する調査を経済協力開発機構(OECD)が検討し、日本もこの調査に参加することから、実施前に国内の評価基準を一定程度整備しておきたいとの狙いもあるとみられる。
ただ、大学関係者が難色を示すことも予想され、指針と大学の自主的な取り組みをいかに両立させるかが課題となりそうだ。
(上記記事より。強調部分はマイスターによる)

国が、専門分野ごとに大学で教育すべき内容の指針を策定する。

「専門分野ごとに策定する」ということは、あらゆる学問に対して指針を策定するのでしょうか?

「指針に強制力や拘束力はない」とのことですが、国が、一定の権威の元に「正解」を示すのですから、大きな影響力を持つでしょう。

個人的には、色々と疑問を覚えてしまいます。

【国が、「大学で教えるべき内容」を押しつけていいのか】

大学の学びは、高校までの学びとは、そもそも位置づけや意味合いが、根本的に違います。
以前にもご紹介しましたが、学校教育法で、大学の存在意義を確認しておきましょう。

【学校教育法】
第17条 小学校は、心身の発達に応じて、初等普通教育を施すことを目的とする。
第35条 中学校は、小学校における教育基礎の上に、心身の発達に応じて、中等普通教育を施すことを目的とする。
第41条 高等学校は、中学校における教育の基礎の上に、心身の発達に応じて、高等普通教育及び専門教育を施すことを目的とする。
第52条 大学は、学術の中心として、広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とする。

大学で行われる教育は、「全国どこでも、これを教えなさい」と国が指導できる高校までとは、まるで違うのです。内容を、誰かが押しつけられる物ではありません。
それぞれの大学が、研究成果などをもとに、学術活動の一環として行うものです。そこには、大学ごとの個性があってしかるべきです。

冒頭の記事では、

小中高校段階の教育は、中教審の審議を経て文科省が作成する学習指導要領に基づいて行われるのに対し、大学の授業内容は基本的に各大学の裁量に任されている。
一方で医学教育などでは、各大学がカリキュラムを編成する際のガイドラインとして「人体器官の構造」「診療の基本」など、必要最低限の教育内容や到達目標を示した「モデル・コアカリキュラム」を文科省が策定しており、今後の指針策定では、こうした事例も参考にする。
■「大学教育内容に指針 学術会議に審議59年ぶり依頼へ国が一定方向性 文科省方針」(東京新聞)記事より)

……と、医学教育が引き合いに出されています。

しかし、医学部と他の学部を同じように扱っていいのでしょうか。
医学は人の命を救うための学問です。そして医学部は、「医師」という国家資格とセットになった、プロフェッショナル養成教育機関です。
大学によって教える内容が全然違っていたりしたら、大変です。そこには、必要最低限の教えるべき内容を統一しなければならない、きちんとした理由があるわけです。

ちなみに、今は工学系でも、「日本技術者教育認定機構(JABEE)」という団体による教育内容認定の仕組みがあります。
(こちらは国が定めた指針などではなく、工学系の学会や大学関係者、企業などによって自主的に運営される仕組みになっています)
これも医学部と同じで、「技術者によって、最低限持ち合わせているべき知識や技術に差があったら、社会が混乱に陥ってしまう」という現実に基づいた仕組みです。

このような医学部、工学部が置かれている状況と、文学部や経営学部、社会学部、体育学部、芸術学部、政策系学部などが置かれている状況は、まるで異なります。

文学部の教育指針をひとつに定める意味が、どこにあるのでしょうか。
国が、大学の教育指針策定で主導権を握る必然性が、今ひとつわからないのです。

【そもそも、指針なんて決められるのか】

実際には学術会議が指針を策定するとのことですが、たとえ専門家であっても、いや専門家であるからこそ、「これだ」という一つの絶対的な内容を決めるのは難しいように思います。

そもそも、年々少しずつ、大学で教える内容は変わっています。
もちろん、学問の中核を占める部分はそう簡単には変わらないでしょうが、それでも大学は、時代の変化を見据え、カリキュラムを少しずつ変えていっています。

さらに、教えるべき内容だけではなく、教育の方法も変わっていくはずです。
それは、実際の学生の様子を見ながら、大学教員達が工夫を凝らし、変えていくものです。

こういった変化に、国がいちいち対応するのでしょうか。
常に最上の教育指針を決め、管理していくなんて、本当に可能なのでしょうか。

【そもそも日本の高等教育は、大学ごとの独自性を認める方向に向かっていたはずではなかったか】

大学設置基準の大綱化。
認証評価制度の創設。
国公立大学の独立行政法人化。
株式会社立大学の誕生。

ここ数年の大学制度改革はみな、あるひとつの発想に則ったものです。
それは、

「何でも国が決めるのではなく、大学ごとの自主性に任せた方が、大学の競争力を高めることになる」

……というものです。

国が強力な規制やルールを定め、大学の有り様を縛れば縛るほど、確かにレベルの低い大学は生まれにくくなります。すべての大学に対して、「これはやっちゃダメ」と、ひとつひとつ教え導いてあげるということですから、失敗例は減るかもしれません。

ただしその代わり、大学が教育方法に独自の工夫を凝らしたり、他に例のないような教育システムを創設することは難しくなります。
ちょうど、小さな子供がやることすべてに対して、親が手をさしのべてあげるようなもの。
「そんなことはやっちゃダメ」
「親が言うことに従っていれば間違いはないんだから」
……と保護し続けていれば、子供は失敗を経験しない代わりに、成長できなくなりますよね。

従来の教育行政が、そのような感じでした。
そこで、その反省にもとづき、ここ数年の制度改革はすべて、大学の自由度を高める方向に沿っていたわけです。

「とんでもない失敗もあるかも知れないが、長期的に見たら日本の大学の強化に繋がるに違いない」
そんな、ある種の「覚悟」があってこその改革だったはずです。
言うまでもなくこの「覚悟」は、いくつかの大学は統廃合されるかもという、ある程度のダメージを負うことを前提にしたものです。

にもかかわらず、今回の報道。
明らかに、これまでの流れと逆の方向を向いています。

裏には色々な事情がありそうですが、マイスターが思うに、「失敗例」も出るという批判に対して、やっぱり文科省が耐えられなかったということもあるのではないでしょうか。

実際、LEC大学など、これまでなら出てこなかったような例が最近出てきています。
しかしいずれも、ここ数年の改革の流れを考えれば、「いつかは出るかも知れなかった」ケース。
自由にやらせる以上、こういった例が出てくることは織り込み済みで、それを認定評価の取り消しなどによってコントロールしていくということだったはずです。

しかしメディアなどは、「文科省は何をやっているんだ!」という批判を展開しがち。
そんな批判を、文科省は無視できなくなったということもあるのかな、なんて、個人的には想像してしまうのです。

……と、現時点での報道を読んで感じた、個人的な感想をいくつか書かせていただきました。
実際にどういう意図なのか、どのようか形になるのかは、まだわかりません。
これから、展開を見守っていきたいと思います。

以上、マイスターでした。

※この記事は、現役高校生のための予備校「早稲田塾」在籍当時、早稲田塾webサイト上に掲載したものです。