マイスターです。
中教審が、「学士力」というコンセプトをまとめているようです。
【教育関連ニュース】—————————————–
■「大学卒業厳格に、中教審案・『学士力』導入、認定試験も」(NIKKEI NET)
http://www.chunichi.co.jp/article/national/news/CK2007091102047792.html
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大学の学部教育の見直しを進めている中央教育審議会(文部科学相の諮問機関)の小委員会は10日、学生の能力低下を防ぐため、卒業要件の厳格化を柱とする報告書案をまとめた。卒業までに学生が身につけるべき「学士力」(仮称)という指針を政府が提示することや、卒業認定試験の実施などで学習成果を証明する機会を設けることを求めた。
小委員会は「多くの大学で大学入試の選抜機能が低下し、入学者の学力水準が担保されない状態となりつつある」と指摘。「大学全入時代」の到来を控え、“出口管理”を強化する必要性を提言した。文科省は今後、小委がまとめる最終報告書をもとに具体的な改革に着手する。
学生に必要な「学士力」としては(1)専門分野の基本知識を身につけ、歴史や社会と関連づけて理解する「知識・理解」(2)日本語と外国語を使って読み・書き・聞き・話しができるなど、社会人生活で必要な「汎用的技能」(3)協調性や倫理観などの「態度・志向性」(4)これらを活用して課題を解決する「創造的思考力」――の4分野を規定。
(上記記事より)
各大学にはそれぞれ、ミッションというものがあります。
この大学は何を目的とした大学か、どのような成果を出すために社会に存在しているかということです。
これは、大学によって異なるはずです。
世界レベルの研究者を養成する大学。
高校まで勉強はいまひとつだったという学生に、基礎的なコミュニケーション能力とビジネススキルを身につけさせ、ビジネスマンとして無事に送り出すことをミッションとする大学。
この二つの大学は、当然のことながら、全然違います。
そこで行われる「教育」のあり方も、その成果も、違うはずです。
それは、同じ尺度で評価することは、できません。
またこのようなミッションについて、学外の他の団体が、「こういうことをさせる大学になりなさい」と強要することも、できないはずです。
私大の場合、それは建学理念という、大学の根幹にも関わることです。
で、上記の報道です。
報道されている「学士力」の定義のような内容は、確かに重要な要素ではあると思います。
しかし個人的には、中教審や文科省には「学士力」なんていうものを定義し、大学に押しつける権限はないと思います。
そもそも、誰もそんな定義を決める能力を持っていないでしょう。
だって、大学ごとに、求められる教育はすべて異なっているのですから。
上から、一律に「こういう力を身につけさせなさい」と命令するなんて、できません。万能の尺度など、つくれないのです。
だいたい、そんな一律の成果基準を設定する必要が、どこにあるのでしょうか。
それに、こうしたことは基本的に「認証評価」の仕組みで担保することになっていたのではないかと思います。
各大学は、自らのミッションを提示し、自らが選んだ第三者評価機関から認証評価を受ける。それをもって、大学の教育・研究力の証明とする……日本の高等教育は、そういう方向に向かっていたはずです。
例えば、第三者評価機関が、中教審の言う「学士力」の定義のようなものを設定したとします。
そうしたら、評価を希望する大学は、その「学士力」の審査を受けて、「うちは○○協会が定める、学士力養成大学の認証を受けています!」とPRするのです。
「うちの大学が考える学士力というのは、ちょっと違うなぁ」と思ったら、認証を敢えて受けないか、もしくは他の機関から認証を受ければいいのです。
そういう仕組みじゃダメなのでしょうか。
こういったあたりの考え方が、都合良く形骸化させられようとしているのが、どうも心配です。
ちゃんとオープンな議論をして、「やっぱり認証評価基準の仕組みには無理がありますね。今後は、国が全部決めましょう」と宣言した後にこういった話が出るのならいいのです。
でも、そうではないですよね。にも関わらず、当たり前のように「国が全部決めてあげる」「全大学に守らせる」という前提で話を進めている点が、なんだか不思議です。
中教審と文科省は、教育に関する権限を、よほど手放したくないのではないかと、思わず邪推してしまいます。もしくは、経済産業省の作った「社会人基礎力」というコンセプトが流行している事実が、よほど気にくわないのかも知れません。
細かいところでも、突飛だなぁと感じる部分がいくつかあります。
小委員会は「多くの大学で大学入試の選抜機能が低下し、入学者の学力水準が担保されない状態となりつつある」と指摘。「大学全入時代」の到来を控え、“出口管理”を強化する必要性を提言した。
(「大学卒業厳格に、中教審案・『学士力』導入、認定試験も」(NIKKEI NET)より)
「入学者の学力水準が担保されない」から「国が出口管理を行う必要がある」という論理の飛躍が、なんだか唐突です。
それと、高校卒業&大学入試の仕組み自体を見直してみるべきだとか、そもそも小学校から高校までの教育がうまくつながっていないのではないかとかいう議論にはならなかったのでしょうか。
中教審が考えるべきは、どちらかというと、そちらの方だと思うのですが。
というか、いま大学で学んでいる世代は、文科省による、いわゆる「ゆとり教育」の世代なんですが、そのあたりの影響については言及されないのでしょうか。
学力試験を課さない推薦・AO入試で大半の学生を受け入れる大学が増加。小委員会では、「このままでは学士という学位の水準が維持できない」という意見で一致し、卒業厳格化の方針がまとまった。
(「大学の卒業、厳格に 『全入時代』迎え質を確保 中教審」(Asahi.com)より)
「AO入試や推薦入試が増えると、学士という学位の水準が保てない」って、どうしてでしょう?
AO入試というのは、そもそも「その学科で活躍しそうな学生を選抜する入試」であるはず。それに失敗しているのだとしたらそれは、その大学のAO入試のやり方に欠陥があるだけだと思うのですけれど……。
まだメディアを通じてしか情報が出ていないので、委員の皆さんがどのような話をされたかはわからないのですが、これらの報道を読んでいる限りでは、やはり国が出てくる理由がわかりません。
中教審小委は「(現状を放置しては)なし崩し的に安易な成績評価が広がってしまう」と指摘。その上で、多文化理解、コミュニケーション能力、論理的思考力や問題解決力など学部段階で身につけるべき能力を「学士力」と定義した。
大学に対し、この学士力を参考にして学習成果の到達基準をそれぞれ定め、身に付いたかを把握するため、学部・学科別か全学的な卒業認定試験を検討するよう求めた。
(「大学卒業は狭き門? 認定試験検討も要請 中教審小委」(SankeiWEB)より)
うーん、やっぱり、この「学士力」の定義はどこから沸いて出たのだろうかと、個人的には違和感を覚えます……。
しかも、この学士力を参考にして卒業認定試験を検討せよと言われています。もはやこれは、文科省による教育カリキュラムの統制ではないかとすら思えてきます。
大学の「入り口」段階についても、「文章表現」「プレゼンテーション」「図書館の利用法」といった入門型の初年次教育を充実化するよう大学側に要請。高校レベルの復習をする補習授業についても充実を求めたが、単位認定はしないようくぎをさした。
(「大学卒業は狭き門? 認定試験検討も要請 中教審小委」(SankeiWEB)より)
こういったことも、基本的には国が指示することではなく、各大学が自分達のミッションに従って取り組むべきことではないかと思います。
ですから中教審の皆様は、どうして高校を卒業しても十分な文章力が身に付いていないのか、といったことの方をお考えいただければと思います。
最後に、具体的な「学士力」の定義を、報道から抜粋します。
今回の素案に示された「学士力」は、「知識」「技能」「態度」「創造的思考力」の4分野13項目。
「知識」では、専攻分野の基本的な知識の習得だけでなく、社会情勢や歴史とも関連づけて学ぶことを、「技能」では、卒業後の社会生活を送る際に必要な能力として、日本語と特定の外国語で読み、書き、聞き、話す力の習得を求めた。
さらに、各大学に対し、授業ごとの到達目標や成績評価の基準を明確にし、学士力がどれだけ定着したか把握するよう要請。大卒の水準維持のため、学部別や全学的な卒業認定試験を実施することも提案した。
◆「学士力」の主な項目◆
【知識】▽異文化の理解 外国などの文化を理解する▽社会情勢や自然、文化への理解 人類の文化や社会情勢などを理解する
【技能】▽コミュニケーション能力 日本語、特定の外国語で読み、書き、聞き、話すことが出来る▽情報活用力 インターネットなどの多様な情報を適切に使い、活用できる▽論理的思考力 情報や知識を分析、表現できる
【態度】▽チームワーク、リーダーシップ 他者と協力して行動したり、目標実現のために方向性を示せる▽倫理観 自分の良心や社会のルールに従って、行動できる▽生涯学習力 卒業後も自ら学習できる
【創造的思考力】知識、技能、態度を総合的に活用し、問題を解決することができる
(「問われる『学士力』、楽じゃないぞ!大学全入時代」(読売オンライン)より)
これを見ていて、ふと気づきました。
つまるところ、これは大学版の「学習指導要領」なんじゃありませんか?
そう考えると、マイスターが感じていた違和感も、はっきりします。
高校までと異なり、大学の教育内容というのは、国が一律に規定するものではないはずです。
専門職の養成課程など、カリキュラムに何らかの統一性やレベル設定が必要なケースもあります。しかしそれはそれぞれの業界団体や学会、認証評価機関、担当省庁などが議論をして決めていけばいい部分。
基本的に、大学の教育力は、大学ごとに違っていて当然です。全国一律、どこの大学でも同じ能力をつけさせる、という必要はありません。
それなのに、小中高校までのように、あたかも国が教育内容について責任を負っているかのような前提で話が進むから、おかしく思えるのではないでしょうか。
というわけで個人的には、大学関係者は怒る場面ではないかと思うのですが、いかがでしょうか。
以上、マイスターでした。
文部科学省の方針はまさに国家管理政策だと思う。私の政治的信条は保守的な立場だけですが最近特に感じます。非常に曖昧な基準を提案するのも変な感じがします。
すべての分野は無理かもしれませんが、現在ある検定試験(法律や経済)を拡大して、各分野の学生に受けさせるのもいいと思います。あくまでも自己管理の範囲内ではないのでしょうか。
学生の質の低下がよく取り上げられますが
「人間として生きる力」が非常に弱くなったことが問題といえます。幼児教育や初等教育のゆとり教育の失敗、子供の遊び社会の崩壊など、根本的な問題が大きすぎる。また、10年ほど前にあった教員と学生の関係も崩壊しつつあります。親と子供が友人化し一番身近な家庭内での親子間の礼節も重んじられなくなったことが大きく影響しています。昔の学生は専門書を本当に大量に買った。お金がなくともアルバイトをして古本屋でみつけて揃えていった。
学生間の語り合いは学問や政治問題、人生などが大きなテーマであり、酒を飲んで夜を明かし講義にでた。今は、じゃれ合い、馴れ合いの子供の会話、これでは終わりですよ。こういったの知の貧困さが日本の危機を招いたことをまずは理解して、日本社会の立て直しを考えた支援策を立てた方がいい。
文部科学省は縛りを押しつけるような時代遅れはやめましょう。中教審のメンバーも自分の専門の部分のみを語りましょう。そうでなければド素人集団となる。また思いつきは発言もやめましょう。
学生間の語り合いは学問や政治問題、人生などが大きなテーマであり、酒を飲んで夜を明かし講義にでた。今は、じゃれ合い、馴れ合いの子供の会話、これでは終わりですよ。こういったの知の貧困さが日本の危機を招いたことをまずは理解して、日本社会の立て直しを考えた支援策を立てた方がいい。
文部科学省は縛りを押しつけるような時代遅れはやめましょう。中教審のメンバーも自分の専門の部分のみを語りましょう。そうでなければド素人集団となる。また思いつき発言もやめましょう。
私は基本的に賛成です。
文科省が出所の政策だと胡散臭く見えますが、教育社会学者の潮木守一氏も「大学再生への具体像」(東信堂、2006)で出口管理を強く主張しておられます。
正直、私は大学組織の自浄能力というものをほとんど信じておりません。
学士力って、大学に押し付ける物ではないってスタンスだった気がします。
答書を見ても大学の建学の精神であったり、個性を無くすような内容とは思えませんでした。
是非メディア以外から情報を集めてみてはどうでしょうか。
「どっかの学生」さま
コメントありがとうございます。3年前の記事が今も読まれているというのは、嬉しい限りです。
記事を読んでいただけるとわかりますが、この記事は、メディアが報道をした「その日」中に書かれたものです。このタイミングで、文科省の正式な発表(会議の議事録含む)は一切、公開されておりません。つまり、メディアの報道情報しかない状態です。
私はブログをかく際、必ず公式なソースにもあたりますが、メディアの報道後、一週間経っても公式な記録や発表が公開されていないというのは、よくあることです。メディアの報道が「要点をまとめて早く伝えること」にあるのに対し、省庁の発表は「公式記録」ですから、どうしてもタイムラグは出てくるのでしょう。
(学生さまもぜひ今後、メディアの最新情報と、公式情報をリアルタイムで見比べてみてください。面白いことが見えてきますよ)
このブログには、速報性の高い話題を紹介する記事と、中長期にわたるトピックをじっくり紐解く記事とがありますが、この回の話題は前者にあたります。
その後、色々と公式情報も出てきていますから、いまこの話題を取り上げた記事を書いたら、興味深い記事が書けるかも知れませんね。