高校の英語が「コミュニケーション英語」に統合される?

マイスターです。

高校時代、英語の先生が、生徒向けのプリントに、こういったような趣旨の文章を寄せていました。

昨今では、英語はとにかく「コミュニケーション力」を重視すべし、と言われています。日本の英語教育は読解やライティングに偏り過ぎていたため、いつまで経っても英語で話ができない、という反省を受けての意見です。
しかし、やはり私は、皆さんには読解を学んで欲しい。原文で「赤毛のアン」が読めたときの喜びも、いいものです。

高校生のときのマイスターは、なるほどそういうものなのかもなぁ、と感じたのを覚えています。

で、大人になった今。
この文章のことを思い返し、考えるのは、

「先生の言いたかったことも分かるけど、やっぱり、先にコミュニケーション能力を向上させておいて、『赤毛のアン』を原文で読めるようになりたい人は大学以降で勉強すればいいんじゃないかなぁ」

……ということです。

英語の原文、それも仮定法や複雑なイディオムがてんこ盛りになったような文章を読むニーズも、ないわけではありません。
が、多くの人が抱えている「英語で最低限のコミュニケーションができない」というデメリットの方が、はるかに重大な問題になっているように思います。
国を挙げて育成すべきは、原文で『赤毛のアン』を読めるような人材よりも、英語で最低限の意見が言える人なんじゃないかな、なんて個人的には思います。

もっとも、このあたりの優先順位の付け方は、人によって違うでしょう。

大人になってから、日常的に英語の文書に接している人は、「あぁ、読解重視の教育を受けておいて良かった」と思っているかもしれません。
論文を読んで研究を進めるときなども、英語の文献をある程度は読める必要がありますよね。

つまるところ、「バランスが大事」ということになるのでしょう。

さて、↓このニュースは、皆様はもうご覧になったでしょうか。

【教育関連ニュース】—————————————–

■「高校英語6科目を統合へ 4技能をバランスよく育成」(SankeiWEB)
http://www.sankei.co.jp/kyouiku/gakko/070827/gkk070827000.htm
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中央教育審議会の外国語専門部会は27日、高校の外国語(英語)でコミュニケーション能力を高めるため、現在の「英語I」「オーラルコミュニケーション(OC)I」など6科目を統合、「コミュニケーション英語」を新設する方向で議論に入った。年度内に予定される学習指導要領の改訂に反映させたい考えだ。

現行の学習指導要領では、英語I・II、OCI・II、リーディング、ライティングの6科目に分かれており、英語IとOCIのどちらかを選択必修としている。だが、大学受験の影響で「読む」「書く」が優先され、「聞く」「話す」の指導が十分でないとの指摘が出ていた。

これら4技能をバランスよく育成するため、文部科学省は同日の外国語部会で6科目の統合を提案。同部会はこの方向で具体的な内容などを検討することにした。

(上記記事より)

というわけで、英語教育の骨組みが若干変わりそうです。
とは言っても、まだこれから議論される段階のようですから、確定情報ではありません。ただ、気になる内容ですので、現在の方向性を知っておいて損はないでしょう。

現時点では、

「コミュニケーション英語基礎」
「コミュニケーション英語I」
「コミュニケーション英語II」
「コミュニケーション英語III」

という科目編成にして、Iと基礎のどちらかを必ず履修する仕組みにする構想のようです。
具体的には、社会や理科などで学ぶ内容を英語で学んだり、日本の伝統文化を英語で紹介したりするんだとか。

また、これらの学習内容を補い、発展させるという目的で

「英語表現」
「リスニング・スピーキング」

などの科目新設も検討しているとのことです。

(参考)
■「高校の英語を『コミュニケーション英語』に統合…文科省」(読売オンライン)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20070827ic22.htm
■「高校英語6科目統合へ 文科省が新科目設置」(中国新聞)
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Sp200708280059.html

英語教育については、マイスターよりもずっとお詳しい方がたくさんいるでしょう。
また、冒頭で述べたように、どのような教育がいいのかは、人によって考え方が違ってくると思います。
ですから、この新しい「コミュニケーション英語」が良いかどうかは、ここでは深くは申し上げません。
(そもそもまだ始まってすら、というか決定すらされていないわけですから、批判を加えるのはまだ早いような気がします)

ここでは、ちょっと気づいた点、気になった点だけを書かせていただきます。

【カリキュラムを変えても、教える人が変わらなかったら、結局状況はさして変わらないのでは】

日本の英語教育で、しばしば指摘される問題は、これだと思います。
小学校で英語を導入したとしても、適切に教えられる人がいなければあまり効果が期待できないのと同じ。
高校英語も結局のところ、教える人はこれまでと同じ人ですよね。

教える英語教員が十分な英語コミュニケーション能力を持ち合わせていること、さらに、英語コミュニケーション能力をつけさせるための教育メソッドを取得していることが、問われそうです。

【大学入試も変わるのか】

冒頭の記事では、

(従来の英語教育においては)大学受験の影響で「読む」「書く」が優先され、「聞く」「話す」の指導が十分でないとの指摘が出ていた。

とあります。

どうして大学入試で「読む」「書く」が優先されてきたのか。
その理由の一つとして、「公平に評価しやすいから」というのもあるのではないかと、マイスターは素人なりに、思います。

コミュニケーション能力を公平に評価するのは、大変です。採点者によって、どうしてもバラツキは出るでしょう。そもそも、前述のように、教える側の能力差も大きく影響しそうです。出題する方は、色々と大変です。

となると、今後も大学入試の英語において、長文読解や文法問題がある程度の割合を占め続ける可能性は高そうです。
で、そうなると結局、高校の現場もこれまでと同様、こういった領域の授業に偏り続けるのではないか……なんて気もするのです。

……なんて考え出してみると、やはりこうした議論は、高校だけではなく、中学校や大学、さらにはその先のことも含めて考えなければならないのだなぁと改めて思います。
(英語に限らず、教育って、そういうものですよね)

さしあたっては、バランスの取れた英語教育に向けて、これから議論が建設的な方向に進んでいくことを願います。

以上、マイスターでした。

3 件のコメント

  • 語学はいくら話せるようになっても使わなければさびついてしまいます。多くの日本人が英語教育を受けながら話せないのは、ほとんどの人にとって「使わなくてもなんの差し障りもない」からです。ある程度の読み書き文法を学んでおけば、必要にかられた人は自ら努力し話せるようになるものです。
    語学は道具です。どう使うか、何のために使うか、が大切であって使い方だけうまくなってもなんの意味もありません。会話だけは得意だけれど、話すべき内容や意見は持っていない人間を増産するよりも、もっと教育すべきことがあるように思います。私のまわりにはなぜかそういう若い人が多く、こういう人が外国人と「コミュニケーション」をとって日本人の代表のように思われているのかと、恥ずかしくなることがあります。
    今回の記事に対してずれたコメントだとは思っておりますが、最近よく感じることなのであえて書かせていただきました。

  • 日本語では、外国語を原文表記しなくてもカタカナというものに置き換えることが出来る。しかし問題なのは、正しい表音どおりにカタカナ化されないことである。

  • 「聞く」「話す」は外国人教師でなければ、授業のどこかで限界を感じることになります。これまでの学校教育では、致命的に外国人教師の数が足りませでした。従って、教えられるはずもないのです。
    日本人英語教師は「文法」読む、書く
    外国人英語教師は「会話」聞く、話す
    というすみ分けが、ある程度少人数でできれば、効果は上がるでしょうが、今のままでは、おそらく無理でしょう。学校の先生の英語能力も中学以下は低いのが現実ですしね。