最近、とてもつらい日々を送っています。
このつらさをわかってくれる人はいるでしょうか。
日本中を盛り下げるような発言で誠に申し訳ないのですが、
実はマイスター、
サッカーに、全然興味がないんです……。
別に、サッカーが嫌いというのではないのです。
ただ「特に興味がない」というだけの話なのですね。
でも、
たったそれだけのことで、こうも暮らしにくい日々になるとはっ……!
普段から、なんか肩身の狭い思いをしているわけなのですが、世界中がフィーバーしている今、その暮らしにくさはピークに達してます。
最近も、たまたま「ワールドカップの中継を見ていない」なんて口にしたところ、話し相手から「えええぇぇぇ!? 信じられない! なんでぇぇ!?」というリアクションをいただきました。
なんでと言われても、あまり興味がないからとしか言いようがないのですが、わかってもらえなくて、つらいです。
んで、その後、
「ねぇ、ロナウドって知ってる!? ジダンって聞いたことある!? ベッカムは!?」
と、まくし立てられたりしました。そりゃあ、その三人の名前くらいはさすがに知ってます。が、一度もプレーを見たことがないし、実を言うと、顔を覚えてません。
そう言うと、また
「信じられないよ! 気にならないのぉ!?」
と、なるのです。
「いや、日本が勝ったか負けたかくらいは、気になるんだよ。だから、まったく気になっていないって訳じゃないんだよ。他の誰かと一緒に盛り上がりながら観るのは、楽しいんだけどさ。今回はあんまり気が乗らないっていうか…」
などと、なぜか一所懸命に弁明している自分にふと気づき、「いったい何をやっているんだ俺は」と、妙に冷静になったりする今日この頃です。
以前書いたとおり、マイスターは友人の男とルームシェアをしています。
で、このルームメイトが、またサッカー大好きなのですよ。
今回のワールドカップにおいて彼は、正しい日本人らしく(?)日本のメンバー発表にどきどきし、開幕後の試合のスケジュールを頭の中にインプットし、一日に何試合も中継を見て、すっかり寝不足の日々を送っているのですね。
そんな彼は、「マイスターが、日本の初戦の相手がどの国なのか、試合当日まで知らなかった」という事実を知った時、目を点にしていました。
まさに、「信じられない。何故なんだ?」という純粋な疑問を感じているのが、マイスターにもひしひしと伝わってきました。
なおマイスターが、日本チームが所属する予選リーグの国々をチェックしていないという事実も、このときにバレました。
んで、そんな事実に心の底からガッカリしているルームメイトを見ながら、なんだかこちらも、なぜだかとても悪いことをしているようで、申し訳ない気分になってきたわけです。
でも、マイスターのルームメイトは、強制的にサッカーを見せようとしたりしないので、こちらはあまり困りません。
しかし世の中には、「サッカーに興味がない人を容認できない」という人が、少なからずいるみたいです。
これだけサッカーが人気のあるスポーツで、あれだけメディアが盛り上げていて、しかも四年に一度の祭典で、どうして興味を持てないのか、という思考パターンに陥ってしまう人です。
マイスターはそういう人と接する時、「いや、普段スポーツニュースを観ないから、あんまり選手のこととか知らないんだ」などと言うのですが、そうすると
「じゃあ、教えてあげるよ。この機会に知っておいた方がいいよ。一般常識だから、知らないとおかしいよ」
という主旨の説教をかまされます。いや、ほんとに!
本当に、マイスターのような人間には、過ごしにくいんですよー(T_T)
スポーツに興味がないというのは、人間的に偏っている証拠だ。
皆が興味を持っていることに興味を持てないのは、どこか人格的におかしい。
よって、あなたはサッカーを学ぶべきだ。
こんなニュアンスのことを、知らず知らず無意識のうちにぶつけてくる人って、結構います。多分、言った本人にはそんな自覚はないと思いますが、漏れ出ていますので、こっちにはひしひしと伝わってくるんです。
サッカーを楽しむのは、個人の自由。
でも、お願いだから、興味のない人にまで、それを強制させないで欲しい。
そう考えるのは、マイスターだけでしょうか。
「興味を持たない自由」
「好きにならない自由」
は、保障されていないのでしょうか。
そんなこと、ないですよね。
こうやって書いてみると、「確かに強制しちゃダメだよなぁ」と、たいていの人は思うもんです。
でもそれが、日本社会の共同体の中で無意識的に行われているときには違和感に気づかない、ということもあるのではありませんか?
日本の「世間」の同調圧力って、あなどれません。
今回はたまたま「サッカー」のことだったから、マイスターはこうして批判的に見ているけれど、他のトピックだったら、マイスターだって、あっさり同調圧力をかける側にまわってしまうかも知れません。
さて、サッカーの話はここまで。
「愛国心教育」について、様々な意見が出てきています。
「国を愛する心を学ばせるのは当たり前のことだ」
「いや、愛国心というのは教わるものではなく、自然にわき出るものだ」
「愛国心を『採点』するようになったら危険だ」
「どのように教育成果を測定するのか」
「測定する必要はない」
「いや、実際既に愛国心を評価対象にしている学校があるぞ」
「国家を愛するのと、国を愛するのとは違う」
「国家を批判するのもまた一種の愛国心だ」
…などなど。
マイスターも、愛国心教育について自分なりの意見を持ってはいますが、それはここで詳細に書くことではありません。周りの人と意見を交換しながら、一人の国民として、自分なりに考えていこうと思います。
ただ、ひとつだけ申し上げたいことが。
仮に、「愛国心を育てる教育」を全国の学校で実施したとしましょう。
(もしかしたら、「国や郷土を愛する心」等の表現になっているかも知れませんが、それならそれで結構です)
それでもやっぱり、結果的に「愛国心をあまり持てない子供」って、出てくると思うんです。
そのとき、その子供に対して、
「この子はおかしい」
とか、
「この子はもうちょっと教育すべきだ」
とか、
「この子は真面目に勉強しなかったのでは?」
とか、そんな評価が下るようなことになっていたら、それは明らかに、おかしいと思います。それでは教育じゃなくて、ただの思想統制ですからね。
愛国心教育をするなら、
「国をあんまり愛さない自由」
も、どこかでちゃんと守られるような仕組みにして欲しいと、マイスターは思うのです。
マイスター自身は日本という国が好きですし、できれば同じように、他の日本人にも国を好きでいて欲しいと思っています。
でも同時に、日本という国にどうしてもこだわりを感じられない人や、日本以上に愛している国がある人がいてもいいと思いますし、逆にそういう人達がいなければ、健全な社会ではないと考えてもいます。
でも、日本社会の同調圧力って、強力です。
愛国心教育が普及していけば、やがて、
「こんなに日本は素晴らしいのに、どうして好きになれないの?
好きになれないあなたは、おかしいよ!」
と言い放つ人が現れるはずです。
そのときちゃんと「いや、国を愛さない自由もあるから」と言う権利を残しておく。これだけは、どんな愛国心教育が実施されるとしても絶対に外せないところだと思うのですが、いかがでしょうか。
愛国心教育に関する評価を通知票に入れるとか入れないとかいった議論は、こういうことを前提にした上で考えた方がいいんじゃないかと、個人的には思うのです。
以上、マイスターでした。
自分もサッカーに全然興味ありません、、、
普段サッカーまったく見ない人が、マスコミに煽られて、急にサッカーファンになる胡散臭さがいやですね。
卓球の世界選手権の時は周りの人が話題にならなくても、一日中ネット中継見てました^^;
さて、愛国心についてですが。
「国をあんまり愛さない自由」を今まで強調しすぎた結果。公立学校の卒業式の国旗まで異議がでるような現状はかなり異常です。
「国を愛する自由」を同調圧力によって否定しているのが現状だといえます。
私は外国で教育を受ける機会がありましたが、その国を愛する教育がなされるのが当然だと思いました。
そのような教育を受けるのがいやなら、私立にいけばいいわけですし。
公立の学校が愛国心を否定するということは、国が国民に対して自分の国を愛さなくてもいいと宣言しているのと等しいことだと思います。
私は日本人ではありませんが、式典では敬意を払う意味で、日本の国家斉唱の際は起立します。(歌は歌わないけど)
日本独特の同調圧力は嫌なものですね。
異質・少数派を許さない国民性なんでしょうね。
異質・少数派=悪 という価値観です。
先の大戦の際国家権力は、
サッカーではなく「学校」を利用して、
集団ヒステリー状態を作りだしました。
自分の頭で思考できる少数派を「非国民」
と名付け、思考停止の熱に浮かされた多数派に抑圧させる(相互監視)方法を採りました。
日本人を支配統制するには、同調圧力を使うのが一番有効なのでしょう。
愛国心の「国」が「権力者のやり方」と
解釈(もちろん与党はそのつもりでしょう)できることも非常に問題です。
先の大戦では、戦争を支持する心を作り
煽るのに、同調圧力(愛国心)が利用されたからです。
つづく
国家は愛国心を強要するのではなく、市民が信頼できる政治や施策を行うのが本筋です。
その結果初めて、市民はそんな日本を誇りに思うことでしょう。
その気持ちが本来の愛国心です。
法律で義務づける押し付けの愛国心は、真に国のことを考え愛する人など産まず、
踏み絵を踏まない(愛国者のフリ)だけの、国家権力に従順な物言わぬ人々を産むだけと思います。
愛国心を盛り込むことは、「国家権力の施策を愛せ」ということです。
教育基本法から、権力の「暴走を防ぐ」という
一番大切な心臓部を奪う結果となるでしょう。
まずは、教育基本法は改定するのではなく、
きちんと遵守(権利としての教育)することですね。
学校や子ども・大人の荒廃は、教育基本法が
学校現場できちんと守られて来なかった(競争・同調の強制)ことこそが
最大の原因と思います。
「改正」教育基本法は、
愛国心削除どころか廃案にすべき法案です。