「イッヒ・レルネ・ドイッチュ」
「イッヒ・リーベ・ドイッチュ」
ドイツ語I、ドイツ語II、計8単位がマイスターに残したものは、上記の2文だけ。そういっても過言ではありません。(ちなみに上記の文章の意味はそれぞれ、「私はドイツ語を学んでいます。」「私はドイツを愛しています。」です。たしか)
これで、8単位すべてがA評価だというのだから、日本の語学教育はやはり何か間違っているとしか思えません。
マイスター、今日はちょっと、以前から不思議に思っていることを書きたいと思います。
それは、
第二外国語
のことです。
自分が大学生になった時、マイスターはちょっと第二外国語が楽しみでした。
ドイツ語とかフランス語とかロシア語とかって、なんだか、かっこよさそうではないですか。なんだか、当時のマイスター青年にとっては、高校までとは一線を画した、すごく「大学らしい」授業であるように思えたのです。
で、ドイツ語を選択したわけですが、今現在、冒頭で述べたようなことしか使えない自分は何?と、しみじみ思うのです。
細かく言うと、他にも、「ドイツ語には男性名詞、女性名詞、中性名詞があるんだ」とか、「ドイツ語では冠詞をつけることで、主語になったり目的語になったりするのか。語順を問わないってのは、日本語に似てるかもな」とか、そういう細かいネタはいくつか覚えています。
ドイツ語ってこういう言語体系なんだなぁ、ということはわかりました。ですから、まったく意味がない時間だったとは思っていないのです。
つまりマイスターは、結果的には「道具としての外国語」は学べなかったけど、「教養」として第二外国語は学んだのですね。
でも一応、当時のシラバスなんかを見ると、「○○が使えるようになる」「○○を修得する」のように、話せる、書けるという点が目的になっているのがわかります。
では、一体なぜ、マイスターはドイツ語が全く使えないのでしょうか?
というより、なぜ、日本の大学生(および大学を出た社会人)達の大半は、第二外国語を学んだにもかかわらず、それを使えないのでしょうか?
それについて、マイスターなりに考えた理由は、
「自分にとってニーズのない外国語だから」
というものです。
マイスターにとって、ドイツ語は必要ありません。
ドイツに行く予定もないし、ドイツ語を研究や、仕事に活かす予定もありません。
じゃあなぜ大学で履修をしたかというと、マイスターの大学では第二外国語が必修で、「ドイツ語」「フランス語」「ロシア語」「中国語」の4つから、8単位を履修することが義務づけられていたからです。
で、どの言語も、ニーズがないという点では変わりなかったので、なんとなく一番響きが好きかな、という理由でドイツ語に決めたのです。
そんなわけで通年2コマ。計90時間(自習時間は除く)の授業を受け、マイスターは使わないドイツ語を学びました。その後、ドイツ語を使う機会があれば、もしかしたら読み書きや会話ができるようになっていったかもしれませんが、そういう機会はありませんでした。
「自分にとって、使う必要がない言語だから、使えるようにならない」
マイスターは、これが一番の理由だとしか、思えないのです。
大学の第二外国語教育って、どういう歴史的経緯を持っているか、ご存じですか?
マイスターは、「大綱化で必修じゃなくなった」くらいのことしか知らなかったので、ちょっと調べてみました。
大学カリキュラムに置ける、第二外国語の扱い
○昭和22 年:「大学基準(大学基準協会)」の中での「一般教養科目の人文科学系列の一科目」で、「一科目最低16~ 24 単位必修」とされている。
○昭和25年:基準改正で、外国語は「補助科目として分立(科目区分なし)」とされる。教養科目から一般教育・専門教育の「道具的科目」とされ、「2 以上の外国語各8単位以上の授業を用意すること」となった。(即ち、外国語は主として原書講読に必要な専門科目の補助、専門科目の基礎と位置付けられた)
○昭和31 年大学設置基準(文部省令第28 号)が制定され、「外国語は科目として独立」、「原則として二外国語以上、一外国語でもよい」、「卒業要件は一外国語8単位以上」、「二外国語以上の場合には、専門教育科目の単位に含めることができる」とされる。1991 年の大綱化まで四年制大学の外国語教育定量基準として機能した。
○1991年:大学設置基準大綱化。大学の外国語教育における「1外国語8 単位以上」という法的枠組みが撤廃される。
(田中 慎也「大学『外国語教育』と『大学外国語』教育」(桜美林大学産業研究所 産研通信)の内容を元にまとめた)
つまり、最初は教養科目としてスタートし、その後、原点購読に必要なツールとして位置づけられた。学ばせる目的が、変わったのですね。ところがその後、大学設置基準により、学ばせる「量」だけが定められることになった。それが91年までずっと続いたのです。
そして91年の大綱化で、この「量」の規制も撤廃されたわけです。
しかし実際にはまだ、大学設置基準の枠組みを温存し続けている大学も多いのではないでしょうか。
マイスターが大学に入学したのは91年以降です。けど、そのときのカリキュラムは、まさに「二外国語以上」、「卒業要件は一外国語8単位以上」という、設置基準の内容そのままでした。
今だって、世の中の多くの大学では、第二外国語を、何らかの形で必修扱いにしているところが少なくないのではないでしょうか?
必修の量は、4単位、または2単位に減ったかも知れないけれど、今でも必修にしているのではないでしょうか?
仮にそうだとして、では、第二外国語を必修で学ばせる意味や目的を、ちゃんと説明できますか?
マイスターが、現在の「第二外国語」の扱いで最もおかしいと思うのは、多くの大学で、
「ドイツ語」
「フランス語」
「ロシア語」
「中国語」
しか学べないということです。
マイスターは理工系学部出身でしたから、理工系大学のカリキュラムなどをよく比較してみるのですが、ほとんどの大学が、今でも上記の科目しか用意してません。
大学によっては、上記に加えて、スペイン語あたりも学べるというところもあるでしょうが、上記4言語が、大学で学ぶ、最もメジャーな言語であることには変わらないと思います。
みなさんは、どうしてこの4言語なんだろう、と疑問に思いませんか?
これはマイスターの意見ですが、かつては、ドイツ語、フランス語、ロシア語には、それぞれ学ぶ意味があったのだと思います。
明治以降、西欧の進んだ学問を日本に導入するためには、ツールとしてのヨーロッパ言語が欠かせないという時代がありました。例えばドイツなら医学や工学、光学、法律などです。これらの知識を学ぶためには、どうしてもドイツ語が必要だという背景があって、そのために大学でドイツ語を教えていたのだと思うのです。
ロシア語も、やはりロシア(&ソ連)の進んだ科学技術があって、そこから学ぶものがあるから、大学で教えたのだと思います。フランス語だってそうでしょう。
じゃあ現在、これらのヨーロッパ言語を学ぶ意義や理由が存在しているかというと、「かつてほどの意義はない」のではないでしょうか。
ドイツは、環境対策分野など世界をリードする部分がまだまだありますから、人によっては、ドイツ語を学ぶ意味は大いにありますよね。でも、大学生のほとんどにとっては、そのニーズは現実的ではありません。
その一方、教室に目を向けてみると、どの大学でもドイツ語の履修者は割と多いはずです。多分、ロシア語よりは多いでしょう。学生全体の、1/3くらいが履修している、なんてところもあると思います。
こうしたところから、つまり、
ニーズの実態と、履修の実態が、全然あってないんじゃないか?
と、マイスターは考えるのです。
今はもう、日本は西洋から学ぶだけではなくて、むしろ世界を先導する位置にある、と言われています。
実際、日本人が、途上国で技術の指導にあたったりする例は増えていますし、科学技術では、アジアをリードする成果をあげています。こうした成果を、アジア各国や中東、アフリカに伝える役目を担っていくはずです。
論理的に考えて、それなら、
むしろ大学生の段階で学ぶべきは、アジアや中東、アフリカの言葉じゃないのか?
と思うのです。
アラビア語、韓国語、インドネシア語なんかを、なんで大学で教えないんだ、と思うのです。
少なくとも、ドイツ語やフランス語、ロシア語には、かつてほどの教員組織は要らないはずなのです。そういう教員達を減らして、アジア諸言語を学ばせていかないと、外国語教育は永遠に現実と乖離したままになるんじゃないかと、マイスターは心配なのです。国の国際競争力などにも結びつく問題であるだけに、これは深刻です。
学生は、私達が思っているよりも、ずっと言語の運用については考えていると思います。実際、中国語は、ほとんどの大学で履修者を増やしているはずです。
かつて中国語というのは、大学で教える第二外国語としては、どちらかというとマイナーな選択肢だったと思います。でも、中国が経済的に台頭し、日本の企業が中国に進出している様子を、学生は自分なりに認識し、「今からなら中国語かな」と判断しているのです。
同じように、例えばアラビア語が持っている可能性、アラビア語を学ぶメリットをちゃんと説明したら、アラビア語を履修する学生は少なからず出てくると思います。
例えば理工系なら、海外の生産拠点で指導的な仕事をするために、アジア諸言語やアラビア語は、大いに役立つと思うのです。英語を話せるエンジニアはいても、アラビア語を話せるエンジニアはそうそういません。エネルギー産業を始め、企業がアラビア語圏に生産拠点を置いたり、マーケットを開拓したりする機会が増えているにも関わらず、です。ですから、アジア・アフリカ言語に力を入れる理工系大学があったら、それだけで大きなアドバンテージになるはずだと思うのです。そしてそうしたメリットを伝えれば、学生もちゃんと反応してくれると思うのです。
こうした学習モデルにした方が、「イッヒ・リーベ・ドイッチュ」しか使えない社会人を量産するより、いくらかまだマシなんじゃないか、そうマイスターは考えるのです。
にも関わらず、相変わらず旧態依然とした言語構成が温存されているのはなぜか。
マイスターにはどうも、「既得権益を守りたい、教員組織の都合」としか思えないのです。
ドイツ語だけで何人も先生がいる大学、あると思います。彼らからすれば、自分達の人数を減らしたくないのです。だから、自分達の人数構成を減らして、代わりにアラビア語の教員を入れていくなんてことは、容認できないはずです。
言語を増やすのも、そのための教員を連れてくるのも、結果的に自分達の立場を脅かす要因になるのなら、反対します。そりゃそうですよね。
学長が強いリーダーシップを発揮し、大学改革を行えば変わるかも知れません。が、大学激変期の現在にあっても、こうした改革を行う大学はあまり聞きません。
一般教育のファカルティから大反対を食らって、教授会で絶対に可決されないことが目に見えているからだと、マイスターは推測します。
そうやって今後も、明治頃から続く構成で、第二外国語が教えられ続けていくのでしょうか。
マイスターは、この点、とても心配です。
学生にとって、社会にとって、あるいは我が国にとって必要な教育が、既得権益を守りたい大学の一部の人達の都合で、十分に提供されていないのだとしたら、大きな問題であるはずです。でも、誰もそこに言及しないのです。
日本の大学にとって、第二外国語教育というのは、不自然に皆が目を背けている「改革が及ばない聖域」であるかのようです。
長くなりましたが、ついでなので、もうひとつ疑問に思う点を。
今現在、日本の多くの大学では、1年生の前期から、外国語を学ばせています。
それまで何の知識もなかったドイツ語やフランス語、ロシア語などを並べて、「さぁ選べ」です。きちんとした目的や計画を持てないのに、いきなり選べるわけがありません。
専門科目についてはちゃんと説明しているのに、どうして第二外国語ではこんないい加減な履修指導がまかり通っているのか、マイスターには不思議です。
上述したように、「この言語にはこういう意義がある」「この言語は、こういう地域で、このくらいの人々に使われている」「今、日本企業はこういうエリアに進出していて、今後も需要が見込める」といった前知識を与えてから、履修させた方が絶対にいいはずです。
それをやらず、ムダに何単位も、自分にとってニーズのない言語を学ばせるというのは、なんだかおかしいよなぁ、と思うのです。
いっそ、「第二外国語の履修は2年生以上」と決めてしまえば、それだけで、かなり日本の言語教育は変わると思います。
でもこれも、専門の教員から反対されることでしょう。日本の多くの大学では、「1年生は基礎・教養科目」、「2年生以上から専門科目」という、科目の棲み分けがされているからです。専門科目の時間が、外国語に取られることをよしとしない教員は、少なくないはずです。ここでも、既得権益なのですよね。
以上、長くなりましたので、ここで切りたいと思います。
大学人にとっては、あまりに当たり前すぎる存在の、第二外国語。
でも、マイスターには、大学改革に取り残されたブラックスポットに見えて仕方がありません。
世の中の実態に合うように、どこかで大学人が、自分達で整理しないといけないんですよね。
そう思う、マイスターでした。
ヘンな質問させてください。
現在就職活動中の女子です。
私立大学事務職員かメガバンク一般職かどちらがお給料高いのでしょうか?
進路に迷っています。
こんなこと誰にも聞けなくて困っています。私見でもよいので教えてください。
すーじさん:
マイスターです。こんばんは。書き込みありがとうございます。業界の先輩方は、すーじさんの書き込みを見て、「給料で職を選ぶのかっ!」とお怒りになられるかも知れませんが、お給料も重要な指標の一つであることは確かですよね。情報も少ないですし、心配される気持ちはよくわかります。
かといって、お給料で選ぶというのは、やっぱり私もあまりオススメしません。というのも、銀行も大学も、仕事が高度化してきている上、これまでのようなローリスク・ハイリターンな組織ではなくなっているからです。
ともに、かつては公務員と同じように安定した、しかも仕事の内容の割に高給がもらえる職種だと思われていました。銀行員が現在、どのくらいの金額をもらっているのか詳しくは存じ上げませんが、実際、大学職員のサラリーは、現在でも高い水準にあると思います。銀行の「一般職」と書かれていますが、大学職員の給与水準はおそらく、国内トップメーカー総合職と比較しても、引けを取らないレベルにあるのではないでしょうか。
しかし、これはあくまでも現在の話です。ご存じのように、18歳人口の減少に伴い、私立大学の経営は非常に厳しい状況においこまれつつあります。2005年の時点で、542校あった四年制大学のうち、29.5%がどこかで定員割れを起こしているそうです。1989年には、定員割れの比率は3.9%だったそうですから、まさに「冬の時代」です。今後、現在のような給与が見込めるとは、考えない方がいいと私などは思うのです。
しかし、それは銀行とて同じこと。銀行が統廃合を繰り返し、その過程でボーナスカットなどが行われていたことは、ご存じでしょう。リストラされた方も少なからずおられるはず。そんなわけで、どちらも、現在の給与を元に職として選ぶことはオススメできないのですね。
大学についてお話ししますと、今後、大学という組織は変わってくると思います。
「事務」だけを行うスタッフは、パートタイムの方や、契約社員の方に取って代わられるようになります(既にそうなってきています)。パートさんにもできるような仕事には、あまり人はいらなくなりますし、そういう仕事をしたとしても、それなりの給料しかもらえなくなると思います。
また、もし「一般職」と同程度の仕事内容をイメージしておられるなら、大学は、もうそういう人をあまり採用しなくなってきていますよ、とお知らせしておきたいと思います。最近では、大学院卒の大学職員も珍しくありませんし、他業種からの転職組も多いです。母校を救う気概に燃えた方々も多いです。こうした方々と、互いの大学の生き残りをかけて競争しなければならないのですから、あまり楽ではないと思います。実は一般職のような仕事をしている大学職員さんはまだまだ少なくないのですが、そうした方々は、船が沈みはじめた時、船にしがみつくしかありません。これでは困りますから、船が沈まないように率先して動ける方や、沈んでもちゃんと自分は生き残れるという方を、大学は採用しはじめているのではないか、と思います。
もし、すーじさんが就職先として大学をお考えなのでしたら、「日本の高等教育を支えるプロになりたい」という気概を持てるかどうか、考えてみると良いかと思います。学生さんの相談を誰よりも親身に聞いてあげたいとか、高度なマーケティングスキルで経営を支えたいとか、留学の支援をしたいとか、そういう強いイメージを持てるなら、大学で働くことに向いているかも知れません。
そして、どんなに不況に苦しんでいる業界であっても、本当のプロであれば路頭に迷うことはありませんし、活躍すれば、給与にそれがある程度は反映される…かも知れません。銀行の一般職より高い給与水準をずっとキープできるかどうかは保証できませんが、すーじさんがプロを目指すおつもりであれば、少なくとも路頭に迷う心配は要らないのかな、と思います。
大学というのは、プロを目指す価値がある業種だと思います。逆に言うと、今後はプロでなければ勤められない職場になると思います。実はこれ、銀行にも、あるいは他の職種にも当てはまります。公務員だってリストラの可能性がある時代ですから、あんまり今の待遇はアテにしない方がいいですよ。
結論としては、
○給与は、メガバンクより高いかどうかはわからないが、今はおそらくかなりの高水準にある。
○しかし、それが今後も維持される可能性は極めて低い。
○だから、給与以外のところで判断された方がいい。将来、その業種でプロを目指せるか、プロになって学生さんのために行動する自分が想像できるか、そのあたりで判断してみてはいかがかな?
ってところでしょうか。
また、ご不明な点があったら、ご質問ください。このコメント欄は、全国の頼れる大学関係者の皆様も読んでくださっていますから、そうした皆様への質問に使って頂いて結構です。
就職活動、頑張ってくださいね。ではでは。
ヘンな質問させてください。
現在就職活動中の女子です。
私立大学事務職員かメガバンク一般職かどちらがお給料高いのでしょうか?
進路に迷っています。
こんなこと誰にも聞けなくて困っています。私見でもよいので教えてください。
>>あほ。そんな尺度で大学と銀行を天秤にかけるような奴はいらん。だいたい一般職なんかと一緒にすんなや。そんなあなたにゴミ清掃員をおすすめします。