職員に対する教員の言葉から、思うこと

ソトからやってきた大学職員、マイスターです。

この職場に入って、もう1年半近いです。
様々な人と出会いました。その多くは、同業者である大学職員のみなさまですが、教員のみなさんとも様々な話をしました。

自分の勤め先の教員とは、当然、仕事中にしょっちゅう話をしています。
職場での懇親会や、何かの打ち上げなどの関では、お酒を飲んでコミュニケーションすることもあります。

そんな交流の場で、勤め先の教員の皆様と話していると、いつも思うことがあるのです。

例えば、飲みの場で教員の口から出てくる「お世話になっています」「ありがとう」の言葉。

「いやぁ、○○課のみなさんにはいつもお世話になってる。○○さんたちがいないと、業務がまわらないからねぇ。ほんと助かるよ」

「職員の皆さんは、縁の下の力持ちとして大学を支えて頂いている。職員のみなさんがいないと、何をしたらいいのかわからないからねぇ、ありがとう」

「ウチの○○課のみなさんは、みんな真面目にやってくれるから、助かるよ」

こうした言葉を投げかけられるのはうれしいものです。
教員の皆さんも、気を遣っているのかな、なんて思ったりもします。

しかし、お酒を飲んだ後の帰り道、冷静に考えてしまうのです。

あの「助かるよ」「ありがとう」は、「職員という位置づけ」に対しての言葉なのか、

それとも、自分のスキルや知識に対して与えられたものなのか……と。

* * * * *

これからの大学職員と大学教員のあり方を説明するときに、「芝居」のたとえが使われることがあります。

大学教員というのは、芝居で言うと、役者です。
ステージの上で個性を発揮し、お客さんを魅了する役目です。役者が演技をすることで、劇団が価値を生み出すわけです。
よって、役者がいない芝居というのはあり得ません。

でも、役者だけでは、芝居は成立しません。

いい物語を考える脚本家がいなければ、芝居はできません。
役者達を効果的に演出する演出家や作曲家がいなければ、芝居は陳腐なものになります。
ダンスの振り付け師がいなければ、役者は思い思いに動くことしかできず、全体としての美しい舞台は完成しないでしょう。
この人達は役者と同じ、作品によっては役者以上に大きな役割を果たす人達です。こうした高度なプロフェッショナルになるには、高度な知識や技術と、磨き抜かれたセンスが必要になりますよね。ゆえに、役者達はこうした職能を持つ人々に敬意を払うし、自分達のコラボレーションパートナーだと認識します。

他にも、質の高い芝居を作るためには、
衣装コーディネーターやメイクアップ・アーティスト、
舞台美術家、
音楽の演奏家、
照明技術者などの力が必要になります。
これらは、高度な専門技術を武器に、作品の質の向上に貢献しているプロ達です。こうした人達も芝居の成功に関して大切な役割を担っています。

お客さんを迎え、つつがなく芝居を鑑賞していただくには、
受付での接客対応、
会場内の誘導、
チケットもぎり、といった人達がうまく機能します。
舞台裏の整理や、控え室での役者達のサポートなど、お客様には見えない裏方部分で頑張る人達もいますね。

上記のすべての人達が、自分の仕事をきっちり行うことで、ようやく芝居は成立します。それも、ただ漫然と役目をこなすのではなく、

役者は役者なりに、
照明技術者は照明技術者なりに、
チケットもぎりはチケットもぎりなりに、それぞれベストな仕事を尽くすことで、

お客様を感動させる名作が生まれるのです。

* * * * *

この<大学=劇団>というたとえは、大学職員向けのセミナーなどでよく聞かれるものです。

大学のサービス(教育、研究、社会貢献etc)を中心的に担うのは、役者である大学教員。その周りに、それぞれ専門の高度な技術や知識を身につけた、学術を支えるプロ達がいて、それが次世代の大学職員の在り方だ。……だいたいセミナーでは、そんな感じで話が展開します。

マイスターはこの、大学のサービスを芝居に例える話は、とても好きです。
実にうまく、今後の大学の在り方を示唆しているように思います。

で、話は冒頭の、大学教員から職員に対してかけられる言葉に戻るのです。

「いやぁ、○○課のみなさんにはいつもお世話になってる。○○さんたちがいないと、業務がまわらないからねぇ。ほんと助かるよ」

「職員の皆さんは、縁の下の力持ちとして大学を支えて頂いている。職員のみなさんがいないと、何をしたらいいのかわからないからねぇ、ありがとう」

「ウチの○○課のみなさんは、みんな真面目にやってくれるから、助かるよ」

会話を楽しんでいる間はそんなことは思わないのですが、冷静に考えてみるとこれらの言葉って、

チケットもぎりや、控え室付のサポート係に対する感謝の言葉なんですね。

「自分達にはできない高度な技術を持っている人への敬意」ではなく、
「全部自分達でやると大変なことを、文句も言わず代わりにやってくれる人に対する感謝」なんだと思います。

もちろんそれ自体は、決して悪いことではないのです。
ただ、「大学職員は、教員とはまた違った形で大学を支える高度なプロフェッショナルになるんだ!」なんていう言葉を聞いて勉強している身としては、正直やっぱりなんだか、あれっ?と思わないでもないのです。

職員が教員に対して、

「いやあ、教員の皆さんが授業をやってくれるから、我が大学の業務がまわるんですよ。ほんと助かります」
「ウチの教員は、みんな真面目にやってくれるから助かるよ」

なんて言葉をかける図を想像してみれば、そのおかしさが、なんとなくわかるでしょう。こんなことを言ったら、教員、怒りますよね。

「仕事なんだから授業をやるのは当然で、そこに対してお礼を言われても返答に困る。『質の高い授業をした』ことに対するお礼ならわかるけど…」とか、「真面目にやっているのは当然だ」とか、言われそうです。

だって、真面目に仕事をするっていうのは、誰でもできることですもんね。
ただ「ちゃんと役目をこなしている」ということだけで感謝されるというのは、言われた側からするとなんだか、複雑な気分になるんじゃないかと思うんです。特に若手を始め、「このままじゃいけない!」と普段から思っているような人や、他業種から転職した人、大学改革の担い手にならんとしている人にとっては。

大学の教員の皆さんから、そういう言葉がこぼれるたびに、マイスターはそんな微妙な気持ちになってしまうのです。社会人として働きはじめて以来、「真面目に仕事をしてくれるだけで十分です」という意味合いにとれる言葉を、何の疑問もなくぶつけてくる人達に出会ったのは初めてでしたからね……。

考えてみれば、大学教員が職員にかけるほめ言葉の多くは、
「真面目さ」「几帳面さ」「気遣い」に関係するものであるような気も、しないでもありません。これに、めんどうくさい学内のことを代わりにやっておいてくれるという意味での「便利さ」が続きます。

学内で組織改編を行ったりすると、

「あ~ぁ、前の方が便利だったよ。ウチの学部のことは、なんでも○○さんに聞けば済んだのに。今は、機能別とかいって、組織がばらばらになっちゃったじゃないか。不便になったよ」

…なんて言葉が教員から出たりしますが、これは、「改編によって今後、自分達が担えない高度な職能を職員が身につけてくれるようになるだろう」という期待よりも、「自分の身の回りのことを聞ける人がいなくなって不便になった」という不満の方が大きいという意味なのでしょう。これまで存在しなかった仕事をしてくれるプロが生まれるよりも、これまで得られてきた便利さや気遣いが失われることの方が、教員にとっては大きなことなのかもしれません。

正直言って、これまでの大学職員の仕事というのは、
「教員でもできることを、代わりにやってあげる」という性質のものがほとんどだったと思います。
しかしこれからの大学職員は、芝居で言う「演出家」や「脚本家」、あるいは「舞台美術家」や「照明技術者」などのように、「役者にはおいそれと真似できないプロの仕事」を担っていくことが期待されている、と言われています。

でも実際には、教員の側はそんなことを微塵も期待していないのかなと、マイスターはよく考えます。

他の大学職員さん達も、同じようなことを考えることがあるようで、「大学職員.network」などでも、しばしば、そういう意見を目にします。みんな、悩んでいるのですね。

あなたのそのスキルや知識に助けられた。
「職員のみなさま」ではなく、他の誰でもないあなたと、また一緒に仕事がしたい。

いつかそんな言葉をかけられるようになりたいと思って、仕事したり勉強したりしている、マイスターでした。

3 件のコメント

  • はじめまして。以前、一度、トラックバックをしましたが、コメントは初めてです。
    私は地方短大の教員をしています。このエントリを読んでいて、私も、職員の方にどんなふうに声をかけていたかなと、少し反省しました。
    ただ、思うのですが、マイスターさんが触れている「芝居」のたとえは、おそらく、ある程度の規模以上の大学にのみ当てはまる気がします。「役者」とそれを支える「裏方」の分業ができる規模です。
    中小の大学では教員の誰もが「役者」の立場にいることは難しく、(少なくとも)一部の教員は「役者」であると同時に「演出家」であり「舞台美術家」であり、なおかつ「チケットもぎり」もやっているという感じでしょうか(もちろん、職員の方と協力しながら)。教員がアマチュアとしてであれ「裏方」の仕事もやらないと、大学が動いていかないように思いました。

  • 最初、長々とコメントを書いて投稿しようとしたら、本文が長すぎるということで、受け付けてもらえませんでした。そこで、くどくなってしまって恐縮ですが、3つに分割します。すいません。以下はその2です。
    もう一つ思ったのは、職員の方がプロフェッショナルを目指されているのに教員の理解が届かないのは、従来型の大学組織の構造的な問題が関係しているかもしれません。
    これは私立大学では違うのかもしれませんが、国公立大学だと、しばらく前までは学内の各種委員会がいろいろな立案や企画にさいして割と大きな権限を持っていたと思います。で、委員会の委員を務めるのは教員で、職員の方はそのサポートをするというかたちです。
    こういう構造のもと、一方では、マイスターさんが書かれているような教員の言動が生まれ、他方では、職員のプロフェッショナル化が(実務的にも心理的にも)阻まれる、ということかなと思いました。

  • 連続したコメントですいません。その3です。もしご迷惑でしたら、削除いただいて構いません。
    もう一つ、「芝居」の比喩で考えると、「役者」と「裏方」がそれぞれプロの仕事を存分に行うためには、どんな「芝居」を作りたいのかという点での目的や理念の共有が大事なんだろうなと思います。また、相手が自分には出来ない仕事をしているとしても、その仕事についての互いの深い理解も必要な気がしました。このあたりをどのように大学組織において実現するか、大きな課題かもしれません。
    長々と書きましたが、的外れでなければと願います。