3月31日と4月1日は、大学の関係者にとっては忙しい日ですよね。
キャンパス中、そわそわ、わさわさと、なんだかせわしかったです。
こんな忙しいときほど、立ち止まってじっくりと物事を考えたい、と思ったりします。
ところで昨日、月曜日に買った週刊『AERA』を読んでいたら、ショッキングなことに気づきました。
『今という時間(とき)』の連載が、今回で終了しますと書いてあったのです。
『今という時間(とき)』というのは、京都市にある「大谷大学」が、『AERA』誌上で隔週連載していた、短めのコラムです。
大谷大学の教員の皆様が交代で執筆していたのですが、仏教学に関連した話を中心に、若者、学び、大学などを切り口にしていた内容で、2色刷ページのはじっこに、控えめに掲載されていました。
正直、ちょっと地味ではありました。
でも、政治や経済、教育問題に関する世知辛い記事が並ぶ中、このコラムはちょっとした息抜きとして、読むとほっとするような存在だったのです。
それだけに、個人的には連載終了が残念でした。
大谷大学のwebサイトでも、『今という時間(とき)』は読めるようになっています。
■大谷大学webサイト
http://www.otani.ac.jp/
■大谷大学 読むページ>今という時間(とき)>最新号
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/ima_toki/index.html
上記のページに「最新号」として掲載されているのは、第254回です(2006年3月31日現在)。
一方、『AERA』2006年4月3日号に掲載された最終回が、264回です。大体10回分くらい、ズラしてあるのですね。
有料メディアに掲載された内容を、しばらく後にwebで無料公開するというのは、よく使われる手法です。
せっかく教員のみなさんが書きためてきた記事なのだから、webサイトでこうして活用するのは非常に重要なことだと思います。
「ワンソース、マルチユース」なんて言ったりしますが、使いまわしは、こういうコンテンツに限っては積極的に行っていいと、個人的には思います。
そうかぁ、連載も終わりかぁと思って、ふと、
「ん? このコラムってそもそも、いつから連載しているんだろう?」
と思いました。
マイスター、大学生のときから、このコラムを読んでいた記憶があります。
■大谷大学 読むページ>バックナンバー>今という時間(とき)
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/ima_toki/index_bn.html
上記のバックナンバーページを見る限り、ほぼ隔週、1年に20回くらいのペースで連載されていたのだと推測されます。
ということは、264回というと…13年間!?
ほんとですか!?
もしそうなら、なんて気の長い連載だったのでしょうか!
わずか600文字程度、このちいさな、しかしなかなか味わい深いコラムが、10年以上も続いていたなんて。
webで公開されているバックナンバーだけを見ると、35人の教員の方が関わっておられるようです。
ひとりにつき平均7、8回分くらい担当した、ということですね(もちろん実際には、多い方、少ない方の偏りがあるのですが)
ただこのコラム、マイスターは楽しんでいたのですが、広報的な費用対効果として、労力やコストに見合うメリットが大谷大学にあったのだろうか、というと、何とも言えません。
何しろ、コラム本文の他には、執筆者名、大学名、大学の住所、PCwebサイトのURLくらいしか掲載されていません。
コラムの内容はいいのですが、受験生を集めるためのコラムだとしたら、いくらなんでも情報不足です。
そうした点からして、このコラムは、
サービスや製品に関しての情報を提供する「広告」ではなく、
組織自体の印象を良くし、じっくりとイメージを刷り込んでいく「PR(Public Relation)」の一種である、
と位置づけられそうです。
PRだとすると、
○誰に対して、
○どんなイメージを訴えたいのか、
ということが問題になりますね。
『AERA』の読者のコア層は、おそらく2~40代の、ちょっと知的な、働く女性です。
社会問題に広く関心を持っており、情報感度もそれなりに高い、知性を磨いていたいと思うような人達です
(正確なデータを見たわけではありませんが、雑誌の構成としてはこのあたりがターゲットだと思います。もちろん女性だけではなく、男性読者も実際にはそれなりにいることでしょう。もちろん『AERA』編集部は、こうした読者層に関するデータを持っているはずです)
働く知性派の方々に、このコラムを読んでもらって、どのようなイメージを持ってもらいたかったのか。
イメージを持ってもらったとして、学園に対するメリットに、どのようにつなげていくつもりだったのか。
そうしたことを考えていかないと、PRはうまくいかないものです。
この『今という時間(とき)』の場合は、
「これから子供が受験生になっていく母親、父親」と、
「学校の教師」の2つが、仮想ターゲットだったのかなぁと、勝手に推測してます。
こうした層の間で、良いイメージを確立できると、やがて大学にとってもメリットが出てくるということでしょう。
ただそれにしても、何学部があるか、くらいは小さく書いておいた方が良かったと思います。これじゃ、
「何を学べるかはよく知らないけど、とりあえず教養っぽい大学」
というイメージで終わってしまいます。
もしこれに学部名が入っていたら、
「○○学と○○学の教員に、いい先生が揃っていそうな、教養っぽい大学」
という、より具体的で深いイメージに変わりますよね。
また、記事に興味を持ったら携帯電話からその執筆者のプロフィールページにアクセスできるようにQRコードを入れておくとか、年に数回はコラムの代わりに公開講座の案内を掲載するとかいった工夫も、欲を言えばあってもよかったような気はします。
コラム自体の内容がいいだけに、アピールなしで記事だけ載って完結している事態が、逆にちょっと心配という感じはしました。
このコラムが終わってしまった理由は存じ上げませんし、もしかしたら、大学名しか掲載していなくても、読者からの反響やお問い合わせがわんさか来ていたのかもしれませんが、それでも、もっとPR効果を高めてあげる余地はあったかもなぁ、連載終了はもったいなかったかもなぁ、なんて、いち読者として感じちゃいました。
なお、サイトを見てみると、大谷大学は『文藝春秋』にも、エッセイを連載しているのですね。
■「生活の中の仏教用語」
http://www.otani.ac.jp/yomu_page/b_yougo/index.html
こうして読み物を活かしていくという方針は、地味ながら、なかなかいいと思います。
あとは、メディアの読者層を丁寧に分析することと、せっかく活字メディアに連載しているのだからそちらを読んだ読者のみなさんをうまく誘導してあげる工夫があれば、なおいっそうのPR効果が望めるかと思います。
というわけで、終わってしまったけれど、『今という時間(とき)』というコラムは結構、地味ながら興味深いPRの事例だったと思う、マイスターでした。