学校と「世間の目」

世間知らずのマイスターです。

ベンチャー気質あふれる大学院を出て、ベンチャー企業で働いたからか、
「世間」のとらえ方が一般的な日本人とちょっとズレてます。たぶん。
思えばこの数年間、言うべきことはズバッと言う人たちばかりに囲まれていました。

大学院の先生は、アメリカ帰りの若い女性の研究者でしたが、合理主義でイイ感じにけんかっ早く、マイスターは心に傷を負いながら指導を受けてました。
でも周囲の空気に流されず合理的な主張をする姿は、見ていて気持ちよかったです。
揺るぎない「知性」というものを感じました。

そして、そんな大学院を出て就職したベンチャー企業は、社員5人でした。
この上司達がまた、大学院の恩師以上の合理主義者でした。
正しいと思えば、クライアントにもズバズバと意見をする人達でした。
側で見ているマイスターの方が心配になるくらいでした。

制作を発注するデザイナーさん達にも、ダメな時は「全然ダメ」と、はっきり言っていました。
「悪くはないんだけど、ごめん、ちょっと直してくれるかな」なんてハンパに気を遣うと、デザイナーも字面通りに受け取って、本当にちょっとしか直せないから、ということです。
全然ダメな時は「全然ダメ」と言う方が、お互いにプロの仕事ができるというわけです。
それがプロデューサーの仕事なんだと教わりました。

ただ、そのあまりに合理的な物言いは、マイスターには非常に頼もしくもあったのですが、
ずっと日本人社会の「イイ人」達に囲まれて過ごしてきた方にとっては、
眉をひそめずにはいられないものだろうなぁと思います。

実際、耐えられなかった同期入社の女性は2ヶ月で失踪退職しました。
マイスターも、大学院でのワンクッションがなかったら、石垣島あたりにすぐ失踪していたかも知れません。

そんな数年間を過ごし、強者達にもまれて過ごしていたからか、マイスター、あまり世間体を気にしません。

もちろん普段はチームワークに徹していますが、緊急事態においては相手が上司でも、言わなければいけない問題をズバリ指摘しなければならないと、心の中で備えています。

こうした行動基準は、吉と出る時と凶と出る時があるので、全体としていいか悪いかはわかりません。
あんまりいいことばっかりでもない気はします。

ただそれでも、

周囲の和を乱すまいと過度に気にするあまり、言うべきことを言わず、なすべきことをなさずにすまそうとしている方をたまに見かけると、

そんなに「世間」を気にしていてどうするの?

と、言いたくなるのです。
特に「学校」というのは、どうも、この「世間」ってものがかなりハバをきかせている世界のようです。

この、実は日本独特の「世間」というシステムが、私達の生き方にどのように影響を及ぼしているのか?
それをわかりやすく解説しているのが、今回ご紹介する本です。

世間の目

マイスターが、転職後、何度か感じた

「なんでこれを誰も指摘しないんじゃい?」とか、
「なんでこんな問題が何年も解決されないままなの?」とか、

そんな疑問の、1/3くらいは、この本のおかげで解けた気がします。
第四章がズバリ<学校と「世間」>というタイトルなので、関係者にはオススメです。

この本の著者、佐藤直樹さんは、元々は刑法を専門とする法学者。
刑事法学は伝統的にドイツ刑法を範としてきたらしいのですが、

「西欧の学問がよってたつ基盤(社会)と、我が国の学問がよってたつ基盤(世間)がまったくちがうのではないか」

という違和感を長く感じていたとのことです。
例えばこれ。

-ドイツでは誰が犯罪をおかしたかについて断固とした意思がわりに容易に認定できるのにたいして、日本では個々の意思をはっきりとさせずに犯罪をおこなう。他人の意思にひきずられて、「そうなってしまった」というのが多いのだ。-「世間の目」より)

この結果、ドイツにはない「共謀共同正犯」、つまり複数で犯罪をおかすようなときに、実行行為をしたものだけでなく、共謀に加わった者も共同正犯として罰しよう、という考え方が日本に独特の理論として作られ、現在、実務の中でフツーに適用されているということです。

つまり、
「西洋の<個人>とか<社会>とかいった概念は、日本では成立しない!」

こんなモヤモヤを感じていたのは佐藤氏だけではなかったようで、こうした日本の問題に対応するため、様々な学問に属する研究者達が立ち上げたのが「日本世間学会」です。

・日本世間学会webサイト
http://www.unicahier.com/SEKEN/seken.html

そんなわけで、この本。

佐藤氏は法学者ですが、本書はこの「世間学」の考え方を背景にして様々な日本独自の現象を読み解く、いわば世間学の入門・紹介本です。

マイスターも、世間知らずではありますが、それでもやっぱり日本人なので、

「あぁ、確かにこういう行動とっちゃうよね」

と感じる事例が多く、興味深く読みました。

食事の時、誰かが「今日はカレーを食おう」と言ったら、本当はラーメンが食べたくても「いいっすね」とか言ってみんなぞろぞろついていく。
わざわざ「いや、自分はラーメンがいいんで、自分だけラーメン食べてきます」なんて主張はしない。

そして店では、5人で行って4人が「ランチセット」を頼んでいるのに、一人だけフルコースを頼むようなことはまずしない。
かなりの確率で、「じゃあ俺もそれ」とか言う。

ね、なんだか、実感ありませんか?

他にも、日本的「世間」が立ち現れる例として、佐藤氏は以下のような実例をあげています。

大規模な交通事故や爆発事故が起きた時、日本人は、自分の同僚や友人など、知り合いが倒れているのをみると、なんとしてでもそれを助けようと努力するのだそうです。
でも、周囲に倒れている、見ず知らずの通行人達のことは、何かのキッカケでもない限り、助けないのだとか。

これは実際に起きた事故現場で、海外の記者が目にした光景だそうです。
そこでは、自分の「世間」のウチにいる人と、ソトにいる人が明快に区別されているのですね。

同じく世間学を研究する阿部謹也氏は、「世間」の定義について

「個人個人を結ぶ関係の環であり、会則や定款はないが、個人個人を強固な絆で結び付けている。しかし、個人が自分からすすんで世間をつくるわけではない。何となく、自分の位置がそこにあるものとして生きている」「『世間』とは何か」より

と述べています。
本書の著者の佐藤氏は、これに加えて

「私たち日本人が集団になったときに発生する力学」

という考えを述べています。

「世間」についての細かい論述は、実際に本書を読んでいただくとしますが、

○日本には西洋の学問や社会システムが前提とする<社会>や、<個人>というものは存在しない。
○あるのは「世間」と、その世間の中で人と人との関係の関係の上に成り立っている「われわれ」である。

というのが、本書で述べている日本社会の姿です。

さて。

この「世間」、悪いところばかりでもないのですが、困った点もいっぱいあります。

合理的な判断や、法律的に認められた権利よりも、「世間」の方が強大な影響力を持ってしまい、正統な権利が奪われてしまうことがある

というのが、そのひとつです。

その興味深い一例が、本書に取り上げられています。

2002年3月に起きた、九州大学医学部による、元オウム真理教幹部の「入学許可の取り消し事件」です。

ようやく、このブログっぽくなってきましたね。

事件のあらましは、こうです。

○九州大学は、一度は元オウム真理教幹部であるこの男性の合格を認めた。
○男性は正統な試験を受けて合格し、正規の方法で入学手続きまで済ませた。
○しかしその後、写真誌の取材を受けて九州大は書類を見直し、男性が元幹部であることを確認。
○医学部教授会で審議した結果、「入学許可は適切でない」として許可取り消しを決定した。

ちなみにこの男性は、オウムの一連の事件には関わっていません。
あくまで、「オウム真理教の幹部だった」という理由で合格を取り消されています。

「医学部は人の命を扱うので、この人物はふさわしくない」
という理由なのだとしたら、では他にもふさわしくない人間がいるかいないかについて、九大医学部は合格者全員について調査をしたのか、という話になりますよね。

当然、そんなことはしていないでしょう。

-写真誌の取材にあわてて、わずか三日の間に、この男性についてだけ、オウム真理教の元幹部であったかどうかについて、つまり「医学部教育を受けるのにふさわしい人物」であるかについて検討したのであって、他の合格者全員について「ふさわしい人物」であるかについて調査したとは、とうてい思えない-「世間の目」より)

と、佐藤氏も指摘しています。
これは、つまるところ、不公平ってヤツですわな。

マイスター、個人的にはオウム真理教のような反社会的な信仰は認められないし、その信仰に関わって犯罪を犯した人間は、法律で罰せられてしかるべきだと思います。
佐藤氏も同様の考えを述べています。

しかしそうではあっても、
九州大学医学部のこの所行は、

 ・憲法14条「法の下の平等」
 ・および憲法20条「信教の自由の保障」

に反している違法行為であり、ムチャクチャであると、佐藤氏は法学者の立場で指摘しています。

きっと九大医学部もそれはわかっていたでしょう。
にも関わらず、なぜこんな判断を下したのか。

佐藤氏はその理由を、次のように述べています。

-九大医学部もバカではないから、入学許可の取り消しをやったら違法になるかもしれないという、その程度のことは考えたはずである。にもかかわらず、九大医学部があえて、このオウム真理教元幹部の入学許可の取り消しをおこなったのはなぜか。
 答えは簡単である。もしこの男性を合格させ、写真誌がそのことを大々的に報道したばあいの、「世間」からの”なぜオウム真理教の元信者を合格させるのか”という医学部にたいする避難や、そのことによる医学部のイメージ・ダウンを考えたからである。(略)
 あきらかにここでは、「世間」の感情のほうが、個人の「人権」より優先されているのだ。
「世間の目」より)

マイスターはこの状況、すごくよく想像できました。
さらにマイスターが思うに、九州大学医学部は、こうした処置に対して男性が裁判を起こすようなことはないだろう、と予想していたんじゃないかと思います。

きっと、裁判をしたら、九大は負けていたでしょう。
実際、全国各地で起きた自治体によるオウム真理教信者の住民票不受理については、明らかに違法だと裁判所が決定しています。

しかし九大はこうした行動をとったし、「住民感情を考慮して」といって住民票を受理しない自治体は後を絶ちません。
これが、「世間」を恐れた行動でなくて、なんだというのでしょうか。
そこには、法治国家の明快な正義はありません。

大学という組織は、一見、知的な組織のように思えますが、日本人の集まりであることには間違いありません。
むしろ他の組織よりも閉鎖性が高い分、「世間」の力学が強く働く集団であると言えるでしょう。

・同じ大学内、
・同じ事務職員内、
・同じ部署内。

・同じ教員内、
・同じ学部内、
・同じ学科内。

様々なレベルで「世間」が存在し、それが私達の行動をがんじがらめに規制しているような気がします。

ウチの身内である人間にたいしてはやさしいが、ソトの他人にたいしてはそうではない、そんな世間の力学が大学内でどのように働いているかも、本書で様々な指摘がされていて、実に興味深いです。

アメリカやイギリスの大学と比較した記述もあります。

長くなってきたので、この辺にします。

非常に面白い本ですので、ぜひ、ご興味のある方は読んでみてください。
ちなみにこの本は、以前、本ブログのコメント欄で読者の方がオススメしてくれた本だったりします。

こうしてご推薦いただいた本は、マイスター、資金と時間が許す限り読みます。
内容がいいものはこうして記事でご紹介しますので、ぜひ、良書を教えていただければと思います。

ついでに、関連してもう一冊。

職員室の社会心理―学校をとりまく世間体の構造

こちらは、中学、高校の指導現場における「世間体」の影響を論じた本です。

やや、執筆者達の個人的な体験がベースになっているきらいもないわけではありませんが、全体としてはなかなか興味深い問題提起がなされていると思います。

 生徒(と、生徒同士)
 保護者(と、地域社会)
 教員(と職員室)

それぞれ、それなりの善意を持って行動しているにもかかわらず、
世間体という目に見えない規定の影響下でしか行動できないために、
問題を解決しない、合理的でない行動を選択していることがわかります。

日本人である以上、逃げることができない「世間」。
こうして、客観的にその「世間」を考えてみるのもいいですよ。

以上、日本人のマイスターでした。