少なくとも義務教育の間は、「ザ・標準」という教育を受けたなと、思っています。
しかし義務教育って、どういうあり方が、理想的なのでしょうね。
あまりに大きな問題で、「こうだ!」と今断言するようなことはできませんが、個人的には
地域性
多様性
適度な競争
といったことが今後のキーワードになっていくのは間違いないのかな、という気がしています。
【教育関連ニュース】——————————————–
■「義務教育費 中教審『国庫負担制を堅持』」(読売オンライン)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20051004ur04.htm
■「義務教育費国庫負担『堅持』 調整は首相ペース?」(読売オンライン)
http://www.yomiuri.co.jp/kyoiku/news/20051004ur03.htm
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「義務教育は国家政策」ということで、制度の堅持を主張する中央教育審議会の委員達。
「地方により格差が生じることは好ましくない」
「分権と、国による教育費確保は矛盾しない」
など、国による教職員給与負担の必要性を訴えているとのこと。
一方で、地方への税源移譲を掲げる小泉首相。
中央教育審議会では制度維持の答申がまとまったものの、
首相は、選挙での圧勝を追い風に、中学校分の国庫負担額に当たる8,500億円を少しでも地方へ移そうという姿勢を崩しません。
改革の旗印を汚すわけにはいかない、という個人的な事情ももちろんあるのでしょうが、
民間でできることは民間で、地方でできることは地方でやる、という政治姿勢は、他の政策と共通していますね。
マイスターのように、教師を目指していたわけでもなく、
子供が(まだ)いるわけでもない。
今は、そんなマイスターのような人間も、義務教育ってなんだろう?と考えてみる、絶好の機会なのかもしれません。
義務教育って、元々は、
「国家による、正しい国民の育成」
といった性格のものですよね。
だからこそ、教育内容を学習指導要領で制御し、教育提供にかかる費用を中央省庁が管理していたのだと思います。
よくいえば全国どこでも公平で均質、
悪く言えば画一的で多様性がない、
それが、義務教育のあり方でした。
画一的かつ均質であることに意味がある、それが、国家が提供する義務教育というものの性格でした。
細かいことを言えば、さらに色々な特徴や意義があるのでしょう。様々な歴史的経緯もあることでしょう。
でも、基本的な発想は、「国民は、国家政府が責任を持ってつくる」ということだったのではないかと思います。
この、中央が教育の内容と予算を握り、均質な教育の責任を持っていくというシステム、
もちろん、歴史的には、大変な意義がありますし、これからも、続ける意味はあるでしょう。
「古い制度だ!」といって、単純に批判できるものでもないと思います。
しかし一方で、地方に予算や人事権を移す、
教育ガバナンスの重心を地方に置く、
といったことの必要性が今、主張されのにも、それなりの理由があると思います。
現場の変革にあわせるため、
多様な状況に柔軟に対応できるようにするため、
地域ごとの実情にあわせるため、
競争のない従来の公立学校が、制度疲労をおこしているため、
色々なことが考えられます。
何より、今の公立学校に対しておそらく少なからぬ国民が不信感を募らせている、という現実があります。
中央省庁である文科省や、現場の教員達に対して、これほどまでに厳しい目が向けられたことは、かつてなかったのではないでしょうか。
現実に様々な問題が起き、国民の不満が大きくなっている。
そうしたことを考えると、問題は、
「変えるか、変えないか」
ではなく、
「どう変えるか、どう設計し直すか」
であるような気もします。
とは言え、自分は初等中等教育の現場にいるわけではないので、
国庫負担制度を維持し、国家が指導していくのか、
地方に財源を移し、個々の努力に期待していくのか、
どっちがいいのかをここで断言することは、マイスターにはできません。
どっちかひとつ!ではなくて、双方のバランスをとったところに、ベストな状態があるのかもしれません。
ただ、マイスターの立場としてご紹介できることは、
「義務教育の予算と権限を地方へ、現場に近いところへ移していこう」
という動きが今起きているのは、どうも、日本だけではないらしいということです。
たとえばその最もわかりやすい例は、以前に記事でもご紹介した、アメリカのチャータースクールです。
・チャータースクールは、戦う公立学校だ
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50026001.html
・学校紹介:ミネソタ・ニューカントリースクール
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50029534.html
上記の記事を読んで頂ければ、チャータースクールのおおよその仕組みはイメージしていただけるかと思います。
チャータースクールは、権限移譲の、究極の姿と言えるかも知れません。
他にも、日本のコミュニティスクール構想の元にもなっている、イギリスの「Community School」にも、地方分権という発想があるように思います。
「学校をつくる権利」「親が学校を選ぶ権利」「教育内容の自主性」
が以前から保障されていたオランダの教育スタイルが、注目を集めたりもしています。
世界のどの国も、ヨソの国の教育を観察して、様子を探っているような状況なんじゃないかと、マイスターは思うのです。
んで、そんな中、冒頭でご紹介した日本の中央教育審議会委員達のような意見は、そんな他の国々でもやっぱり出ているわけです。
「義務教育は、国家が国民を育成するために責任を持って主導していくべきもので、そう簡単に地方に任せていいものではない!」
と。
アメリカのチャータースクール制度は、マイスターから見れば画期的な制度ですが、
国民としての一体感が失われるのではないか?との批判は、やはりアメリカ国内で、あるそうです。
特にアメリカは、日本とは比較にならないくらいの多民族国家です。
「家に帰れば、みんな違う文化圏」という状態だって、ないわけではないのです。
だからこそ、教室に星条旗を飾ったり、国歌を歌ったり、国民のヒーローをみんなで敬ったりすることを、日本とは比較にならないくらい重視しているんじゃないかな、と思います。
「アメリカ国民を作る」というのも、アメリカの教育の大事な役割なのでしょう。(この点、日本の教育現場と逆です)
そんなアメリカなだけに、地域で勝手に、
「よく言えば多様で自由、悪く言うと各自バラバラ」
の教育をしてしまうことには、国民の不安も大きいし、批判も強いわけです。
大げさに言えば、国民が分解してしまうんじゃないか!?くらいの潜在的な危機意識を、持っていたりするわけです。
実際、学校によって人種や民族の構成が偏っているという状態は、チャータースクールでしばしば起きています。
特定民族のニーズにこたえられるような公立小学校が設立され、そこに、特定民族の子ども(と親)達が集まる、なんてことが普通に起きます。
もっともそれは、「貧しい地域の、民族的にマイノリティな子供達に、私立並みの充実した教育を提供しようとした結果」であることも多いのですが、偏ってしまうことは、確かです。
国の隅々まで、同じように、均質の教育を与えるのが従来の「義務教育」の役割だとしたら、
アメリカはそこから一歩踏み出す国家的な実験をしていると言えるのかも知れません。
そんな世界の動きを見ながら、さて、日本はどうなるのか、と考えてみると、
冒頭でご紹介したような報道に、より関心を持てるんじゃないでしょうか。
毎年計上される国家予算からすれば、8,500億円はそこまで大騒ぎする額ではないのかも知れません。
しかし、この8,500億円の扱われ方が、
その後の教育ガバナンスの構造に、何らかの影響を与えていくのではないか?
と、マイスターなどは思うわけなのですよ。
なので、ニュースを見ていても、軽く流せないのです。
これは、今後の日本の「国家観」に関わる問題なんだと思います。
大げさではありません。
教育の設計は、国家の設計なんですから。
マイスターとしては、
単なる一時的な選挙のための人気取りや、財政再建という限られた目的のためだけでなく、
「地域重視!」という、フレーズだけの改革でなく、
それこそ百年の計として考えた上での、議論をしていただきたいと思います。
制度を維持しようという側にも、
本当に今後の日本がこのままでいいのか、
今世紀も、戦前とほとんど変わらない教育ガバナンスでいいのか、
国民にとって、国家にとってベストな選択は何なのか、
ということを、真剣に議論していただきたいと思います。
マイスターもいち国民として、報道される状況を真剣に見守ることにします。
さぁ、政治家や有識者のみなさん方は、未来の日本をどう設計しようとしているのか。
今後も、目が離せません。
そんな壮大な流れをイメージしながら、今日も教育関連のニュースをチェックする、マイスターでした。