学則「最低4年間は在籍すること」

大学職員に転職して、もう11ヵ月くらいになるマイスターです。
早いものです。

ブログの毎日更新を始めたのが、5月の初め。
転職して、ちょうど半年というタイミングでした。
その頃は、

「大学は、半年単位で動いているのであるから、
 大学の業務の大半を見たってことかな…?」

と、思っていました。
実際はもちろん、半年単位で動く部分と、1年単位で動く部分があるわけで、まだまだ知らないことも多いです。
しかし教学部門の業務の多くが半年単位でまわっているというのは、マイスターの周りを見る限り、だいたい事実のようです。

しかし…「業務の切れ目」があるって、気持ち的に、楽ですねぇ。

前働いていたweb広報サイト制作会社は、突発的に入ってくるプロジェクトの積み重ねで動いていたので、こうした「ワンクール」という概念がそもそも存在していませんでした。それに比べると、精神的に、非常に楽です。

さて、「後期」がスタートしたわけですが、このタイミングでしか見えない問題がいくつかありました。
それは、

「卒業のための単位がすべてそろったのに、卒業を許可されない4年生」

です。
卒業論文が必修でない学科コースでは、こうした学生が当然、出てくるわけですね。

では、なぜ卒業できないか?
はい、それは学則に、規定があるからです。

「最低、4年間在籍すること」

と。

学生も、学則はもちろん知っています。
そもそも、日本の大学は基本的に4年未満で卒業できない、ということもご存じなのですが、それでも、申し訳なさそうにおずおずと、

「あの、念のためお聞きしたいんですが、
 私、卒業の条件、全部そろっちゃったんです。
 前期終了の時点で、卒業する…って、できないんでしょうか…?」

と、カウンターで聞いてくるわけです。
見ると、確かに、成績上はいつでも卒業可能なのです。

でも、できないのです。
はっきりいって、どう考えてもおかしい制度なのですが、できないのです。

仕方なく、

「すみません、学則で4年間以上在籍すると決められているので、ダメです」

と、説明しなければならない、このむなしさ。

なんだか、マラソンで他の選手を大きく引き離してゴールしたランナーに対して、

「申し訳ないけど、他の選手が来るまで、待っててくれないかな」

と言っているような気分になります。

いちおう、ポジティブに他の面白そうな科目を紹介したり、
教職の科目を勧めてみたりするのですが、
それもなんだか、ゴールしたマラソンランナーに

「ゴールさせられないのは申し訳ないけど、やることがないなら、バーベルとか、筋トレマシーンとか用意したからさ、これで適当にひま、つぶしていてよ。
ほら、将来の役に立つでしょ?今のうちにやっといた方がいいって」

と言っているような気分になるのですよ。
これらも、無駄なことではないんだけど、そういう問題じゃないと思うのですね。

どう考えても、文科省とか、それぞれの大学とか、そうした
サービス提供者側、管理側の都合に思えるのです、こういうの。

学生から見れば、がんばって早く学業を修めたのだから、
無駄な暇つぶしなんかしていないで、とっとと次のステージに行きたい、
と思うのが当然。
しかも彼らは、選挙権も与えられるほどの、十分な大人であるわけですし。

せめて、残りの半期を、休学扱いにしてあげれば、学費が大幅に安くなっていいのですが、それもダメです。
「在学期間」には、休学の期間は含まれないからです。

つまり、極端に言うと、

「授業を一切受けておらず、そのくせ休学も認められず、
 ただ学費を払いながら時間が過ぎるのを待つだけの半年」

を学生に強いているということに。
これが、大学の都合でなくて、なんだろう。

おかしい。まったくもって、おかしい。

ついでにいうと、本学の場合、卒業論文に着手する際の条件には、

「(卒業論文着手条件)3年以上在学していること」

という項目が入っています。
また、授業の履修に当たっては、

「自分の在籍学年より上の学年の授業を履修することは認められない

と定められています。
多分、本学だけでなく、たいていの大学には、こうした規則があると思います。

・僕、9歳の大学生
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50056326.html

・飛び級制度と学力観
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50038115.html

の2つの記事でもご紹介したことを、それでも、しつこく繰り返して述べさせて頂きまっす!

本当に、日本の教育システムは、

「同じ歳に生まれた子供は、いつまでも同じ程度の学習能力」

という、間違った前提で設計されているのです。

大学生ですよ?高等教育ですよ?
学力も、学びのペースも、人それぞれでしょう。

教育上の配慮ではなく、文科省と大学の都合100%でこんなことになっているのだと、マイスターは断言する。

誰がなんと言おうと、これは疑う余地がありません!
社会主義的な統制・計画経済の、教育版みたいなものです。

とっとと、単位従量制の学費システムを導入し、単位がそろった学生から卒業を認めるような仕組みにするべきだと思うのは、マイスターだけなのでしょうか。

んで、そうなると、楽して単位をかき集めた学生がぞくぞく卒業していくはずです。

(マイスターですら、学部1年生の時、年間で50単位、取得していました。
ある程度まじめに授業に出るだけで、普通の学生は、これくらいできるのです。
早期卒業のインセンティブがかかったら、早い段階で単位を大量に稼ごうとする学生はもっと増えるはずです)

それではまずいですから、個々の教員が、もうちょっと厳しく学生に勉強させるようになるんじゃないかな、なんてマイスターなどは思ったりもするのですが…。

何より、

「大学は、他でもない自分のために、勉強をするために来るところだ」

という、大学教育の根本を世に問える、いい機会だと思うのです。

後期の初めは、こうした問題を間近に考えられるチャンスです。

優秀な学生さんを見ながら、心の中で

大学の入学、進級、卒業を、「在学期間」で判断するの、はんたーい!

と、一人叫んでみるマイスターでした。

8 件のコメント

  • 仰ることはごもっともです。
    しかし、年間50単位も取ることが全うとは考えません。それは単位の粗製乱造とも言えるでしょう。出席も取らず、宿題も課さず、試験のみの成績で単位を出していること自体に問題があるのではないでしょうか。
    ちょっと古い話ですが、某大学で就職も決まった4年生が某科目を落としたため大量に留年した事例がありました。単位とは何か、大学教育とは何かを考えさせられました。
    近年、3年卒業も法改正により可能になり、導入する大学も増えてきています。極端に言えば大学3年、修士1年、博士2年で博士号取得が可能になりました。

  • 私の書き方がわかりにくかったかもしれません。よく見ていただくと、
    「そうなると、楽して単位をかき集めた学生がぞくぞく卒業していくはずです。」
    →「マイスターですら、学部1年生の時、年間で50単位、取得していました。」
    →「それではまずいですから、個々の教員が、もうちょっと厳しく学生に勉強させるようになるんじゃないかな、なんてマイスターなどは思ったりもするのですが…。」
    という文章になっています。
    間に余計なカッコ書きを入れたせいで、違う意味に取られてしまう感じになったかもしれませんね。失礼いたしました。

  • 誤解を生んでいるようなので、
    50単位も取得すれば中身が薄くなるということを言いたかったのです。
    例えば、授業時間、宿題に掛ける時間が100時間しかないとすると、
    取得単位が50単位なら2時間、40単位なら2.5時間、30単位なら3.3時間しか無いと言うことです。これを見て頂くと分かりますが
    取得単位が明らかに勉強する時間が薄い事が分かります。
    米国では、2セメスター(1年間)に40単位取得することは
    至難の業です。当然上記の理由からGPAも下がってきます。

  • ご説明、ありがとうございます。
    私もそう思います。
    「50単位もとれるのはまずい」と、考えております。

  • 私の考えですが,
    国立または国の補助を受けた私立大学は,国民に対して平等な入学機会を設け,入学後には平等なサービスを提供するべき.
    そういう観点から,例えば,二重学籍を実質的に不可能とするため修業年限を定めているのではないかと思います.

  • てるぞうさま、ご意見ありがとうございます、マイスターです。
    なるほど! 確かに、そういう見方もありますね。
    私学であっても国が主導している、という感覚も強かったようですし、これまでは、そうした考え方が徹底されていたのでしょうね。
    ご意見、とても参考になります。
    今後は、そうした考え方による、平等サービスの前提が、崩れていくのでしょうね。
    上記のktさまもご紹介してくださっている3年卒業や、、
    海外の大学と提携したダブル・ディグリー制度(4~5年で2種類の学位を取得するシステム)の導入、
    国内の他大学と「国内交換留学」の実施など、
    サービスの差別化を計る大学が、近年、段々と目立ってまいりました。
    これらの試みがこれまで実施されずにいた要因の一つとして、てるぞうさまがご指摘されるような、「税金を受けた、平等なサービスだから」の意識も、関係しているかも知れませんね。

  • 誤解があるようなので再度、
    これサービスの差別化ではない。
    能力ある人には、卒業・修了に必要な期間を満たさなくても
    上位の学校に入学できることを決めたにすぎない。
    あくまでも能力差に着眼点がある。
    個人的には、ダブル・ディグリー制度について
    収支バランスの点がほとんど議論されていないので
    明確にする必要があると考えています。

  • ktさま:
    マイスターです。何度も、コメントありがとうございます。
    ここまで様々なご意見をいただいていて、興味深い視点に気づけました。
    私は、これらの大学の諸制度を、「顧客から見たサービス」という観点で見ているのですね。
    法は変わりましたが、3年で卒業できるようにした大学がある一方で、まだそれを認めない大学がある。これは、民間企業で広報企画に携わっていた私の感覚で言えば、大学間の、サービスの差別化ということになります。
    高2からの飛び級入学も同様です。いまや制度的にはどの大学でも可能な仕組みですが、それをどう可能にするか、という点で差がつき、飛び級を実現させた大学と、そうでない大学が生まれています。
    これも、顧客からすれば、大学を選ぶ際の判断基準の一つになるのではないかと思います。
    しかし大学の中から、大学業界の関係者として見れば、これらは単に制度が変わっただけと、いうことになるのかな、と感じました。
    プロデューサーと、アドミニストレーターの視点の違いのようで、個人的には、非常に興味深く思います。
    外部者の視点で組織を見るのと、内から組織運営を考えるのとの違い、ともいえるかと思います。
    (こうした発見があるから、こうしてブログを書いていて、楽しいです)
    ダブル・ディグリー制度については、収支バランスの議論が、確かに抜けているように思います。
    私も、この制度についてはまだまだ不勉強です。ぜひ、色々とご意見をいただきたく思います。