いまひとつ魅力が感じられない「学校評価ガイドライン」

小学校のとき通信簿の数字が、2年くらいまったく変わらなかったことがあるマイスターです。
さすがに、子供心にも「手抜きだろ先生」と思ったのを覚えてます。

そう言えば小学校の「通信簿」には、各教科の成績の評価(マイスターの時は「1~5」の5段階)の他に、

「他人を思いやれる」
「責任感がある」
「協調性がある」

といった項目がありましたね。んで、それぞれに○とか△とかがついていました。

今思うと、45人(当時のマイスターの学級)の児童全員に対して、責任感だの、行動力だの、思いやりだのを評価しきれるもんなのでしょうかね?
「偶然教師の目にとまった行為」で、評価せざるを得ないと思うのですが、それを45人。
授業中とか行事の間とかしか、教師は子供を見ていないわけで…。
「ノリで評価していた」というのは言い過ぎだと思いますが、教師も一人の人間。真実客観的な評価からはほど遠い存在です。
にも関わらず、教師のこうした評価を「神の言葉」のごとく受け取っていた自分達。

そんなことをふと考え、うーむ、と昼からうなってました。
誰がやっても「評価」には欠陥がつきものなのですね。
つまりきっと、欠陥をいかに埋めながら評価していくか、を何よりもまず先に考えるべきなのでしょうね。

【教育関連ニュース】——————————————–

■「学校自己評価の指針、今年度中に策定へ…文科省方針」(読売オンライン:社会 9/23)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20050923i515.htm

■「学校評価ガイドライン、文科省策定へ 現場「点検」促す」(Asahi.com 8/30)
http://www.asahi.com/edu/news/TKY200508290384.html
—————————————————————

というわけで、公立学校の「学校評価ガイドライン」が、今年度中に策定されるようです。

これまでの経緯は、Asahi.comの記事にまとめられています。

-学校評価は、02年度から施行された小学校設置基準などに基づいて、自己評価の実施と結果の公表が制度化された。03年度時点で、学校が自ら行う自己評価は公立学校の95%が実施。地域住民や保護者らによる外部評価も実施率が64%まで達した。ただ、これらは評価項目にばらつきがある。

 新たに策定するガイドラインには教育課程や生徒指導、体力などの項目を盛り込むことを予定している。同一尺度で学校の教育水準を比較することが可能になるが、文科省は「ガイドラインを強制するつもりはない」としている。ただ、自己評価については、いまは公表が努力義務になっているが、いずれ実施義務に改める方針だ。-(冒頭Asahi.com記事より)

2002年から、学校を「自己評価」する制度が、制度化されていたのですね。

「各学校は評価と結果の公表に努める

ということで、現在は、まだ、努力義務です。
しかも、統一された評価基準がなかったものだから、各校が提出する評価項目が、ばらばらだったのです。

これでは、評価とは言えません。

特に、まず、自己評価というのが、いただけません。

マイスター、関係者の皆様には申し訳ないのですが、公立学校の学校の自己評価なんてものは、まったく信用しません。
以前何かで読んだ記事で、印象に残っている話があります。

ある公立学校(確か小学校)で、教員に配られたアンケートに、

「あなたの教室にいじめはありますか?」

という質問があったというのですね。

で、ある若い教師は、

「まさか、まったくない、ということはないだろう」

と思って、

「1件存在する」

と回答したのです。

そうしたら、その教師が勤務する学校では、学校全体でその「1件」だけしかいじめがないという結果になったというのです。

全学年、全児童で、1件しかいじめがない小学校なんて、信じられますか?
この記事はマイスターに、公立学校の「波風立てないなあなあ主義」と、「自己申告評価、自己改善にまったく向いていない体質」を教えてくれました。

残念ながら非営利組織の場合、評価というのは、第三者が行ってはじめて意味をなすのですね。

企業なら、

「売り上げ」や「利益」を出せれば○、
出せなければ理由はどうあれ×、

という世界ですから、結局、社員も、各部署も、会社全体としても、自分のために自己点検をやるしかありません。

成果を出すための点検です。
成果が出なければ自分のせいですから、それなりに正直に取り組むはずです。偽る理由がありません。
評価の結果、途中で何かマズイ問題が見つかったとしても、それが解決されて、利益が向上すればいいのです。

しかし、教育の成果は、企業のように単純に結果だけを測れるものではありません。

そうであるにも関わらず、悪いことに、(公立学校の場合特にですが)自分で自分を厳しく評価する理由がそれほど教員に強く働かない仕組みになっています。
むしろ、「波風立てぬのが吉」という、問題を隠す方にインセンティブが働いてしまっています。

また、現場の長である校長はあまり権限を持っていませんから、評価を厳格に浸透させるための指示も徹底しきれないように思います。

成果をあげるために膿を出そう!というのが「評価」の本来の目的だとすれば、
公立学校の現場で「自己評価」は、不可能です。

だからこそ、評価は第三者から受ける必要があるのです。

もう一つマイスターが思うのは、学校の評価は「多角的」であるべきなんじゃないかってことです。

今回の、ガイドライン策定の動き自体はいいのですが、ちょっと気になるのは
その実施方法が、「自己評価」という不完全な形であるにもかかわらず、
評価指標の方は、やたら具体的に全国統一にしようとしている
ってところです。

また、Asahi.comの報道にある、

-また、教育の質保証を図るため、学校評価システムと07年度からの本格実施を目指す全国学力調査との一体的な分析が可能になるよう、省内に専門の「教育水準部」を新設する方向で検討を進めている。-(Asahi.com記事より)

の記述も不気味です。

学力調査との連動

本当は、文科省はただコレをやりたいだけなんじゃないかな?なんて考えてしまいます。

読売とAsahi.comで紹介されている「評価指標(予定)」は、

・授業研究
・教育課程
・生徒指導
・体力

ですが、最初の授業研究を除くと、どうも個人的には、今さら学校評価の中心に据える魅力を感じません。

これらの評価結果が、全国学力調査の結果と一体的に分析されるの?

それって、結局は

「地方に権限を委譲しているように見せつつ、教育の目標や成果は、文科省が一括管理し、勝手をさせない」

という意図であるように思えるのですが…。

Asahi.comの記事には、

「国の基準に沿って地域や学校が教育内容の「点検」を実施することになる。」

とありますが、どうもそんなポジティブな空気は漂っていないようです。

実質、文科省が決めた教育目標に従って、

現場の教員達が数字でわかる成果だけを出すように考えてしまったり、

あるいは身内による自己評価のため、自己改善されない学校ばかりになってしまったり、

そんな方向性を感じて、不安です。

私達が教育に対して求めている「評価」って、もっと、違うところにもあるのではないでしょうか?

例えば、学力や体力といったものも確かに重要ではありますが、それだけでなくて、

・子供の学びに対するモチベーション向上に寄与したか
・地域社会に、定期的に十分な情報を発信しているか
・積極的に保護者にコミュニケーションを働きかけているか

といった項目の方が、現在の公立学校の評価指標としてはより強く求められている気がするのですが、こうしたものは評価されないのでしょうかね?

また、評価者も、自己評価だけではなくて、

・直近数年間の卒業生
・在学生
・保護者
・教育委員会
・地元の大学教育学部

なんて方々からの評価があった方が、いいんじゃないでしょうかね。

たとえば、アメリカのチャータースクールの場合、
5年に1度くらいで外部から評価を受けていますが、
評価するのは、地元の大学の教育学部だったりします。
(州によっても、学校によっても違いますが、「大学教育学部」ってのは、なかなかいい試みだとマイスターは思います)

こうした多角的、客観的な評価を受けるためには、普段の取り組みや成果をwebや地域で常に発信する体制が必要になりますよね。
公表されている評価が本当かどうか、市民オンブズマン団体が「監査」にいくことだって必要になるでしょう。

ほら、これなら、なんだか学校がより健全に、前向きな組織になっていく気がしませんか?

こうした評価の方が、よっぽど健全で、教育現場に求められているように思え、
マイスターは魅力を感じるのです。

マイスター、学校を評価する仕組みはとても大切だと思います。

しかし、評価の仕方と、評価の内容については、年度末まで、しっかり議論を尽くして欲しいと思います。

以上、学校評価ガイドラインに不安と期待を両方感じるマイスターでした。