そうした子は、他の子のお母様方から、
「将来は東大にはいるのかしらねぇ」
なんて、言われていたものです。
そんな同級生を見ながら、自分はトーダイの意味するところもわからず遊びほうけていたマイスターです。
英語で、
“highly gifted”
という言葉があるそうです。
日本語の「天才」(=天から特別な才能を与えられた子)と、意味はおそらく同じです。
マイスターが自分で出会ってきた人たちにも、頭の回転が速い人、理解力がある人はたくさんいましたが、
それでもせいぜい、
「(このまま順当に勉強し続ければ)将来は東大に入るのかしらねぇ」
という程度でした。
小学生の歳で、
「来年あたり、大学に入るんじゃないか」
と言われる子には、会ったことがありません。
そんな、滅多にいないと思われる”highly gifted”な方が、
9歳でアメリカの大学に入学した、矢野祥君です。
9歳での大学入学は、アメリカでも、フルタイム学生としては最年少だそうです。
その存在を知って、マイスターも「こ、これは大学のあり方を考える上で貴重なケースだ!」と思い、
Amazon.co.jpでさっそく上記の本を取り寄せ、一気に読んでしまいました。
この本は、本人である矢野祥君のコラムと日記、そして、ご両親のコラムで構成されています。
この本を読む限り、祥君は、いわゆる「早期英才教育」の類は受けていません。
ご両親はむしろ、そうしたものを意識的に避けています。
いい音楽に触れさせたり、家族で過ごす時間を大切にしたり、「人生で大切なことは何か?」といった親子での会話をしたり、そんな根本的で基本的なことを、大事にしている方です。
いわゆる「教育ママ・パパ」みたいなイメージは、全く当てはまりません。
ご両親は、そうしたIQを上げるための早期教育に対して批判的な考えを持っていると思います。
祥君本人の日記につづられた文章を読んでいても、それがよくわかります。
非常に楽しくて、あたたかく、かつ、「大切なことを大切にする」家庭で育ったのだろうな、と感じます。
お父様は日本人、お母様は韓国人の方で、
祥君は、おそらくアメリカ生まれのアメリカ育ちということになるのかなと思いますが、
アジア人の哲学や、アメリカ人としての個性尊重主義など、
様々なバックグラウンドがうまくミックスされた環境だと感じました。
(もちろん、本を読んだだけですので、詳しいところはわかりませんが)
で、祥君は、IQが200以上です。
まさに、”highly gifted”です。
しかし、「IQが高いことが、幸せな人生じゃない」といった考え方を両親も、祥君本人も、強く持っています。
そんな数字にとらわれず、芸術を愛したり、動物を育てたりすることを大切にする姿勢が、非常に感銘を受けるところです。
ただ、本人の学ぶ意欲を削いではいけない、
のびのびと、望む教育を受けさえてやりたいということで、自然と大学生になったのですね。
そんなわけで、飛び級を重ね、祥君は9歳でロヨラ大学に進学します。
↓ロヨラ大学の広報誌で紹介された記事です。
■「Young Genius(若き天才)」(LOYOLA MAGAZINE)
http://www.luc.edu/publications/loyolamag/winter2001/genius.htm
※祥君は、アメリカの大学入学適正試験であるSATで、1500点を取っているそうです。
ハーバード大学入学者の平均が1300点代ですから、数字上は、どの大学にも入れたのです。
親の見栄や、単なる受験競争の結果ではなく、祥君が、自分でロヨラ大学を選んだわけです。
むしろ、最初は両親も「慎重に学んで様子を見よう」ということで、短大からスタートしているほどです。
彼はあらゆる学問に対して興味を持っており、好奇心にあふれる学生です。
何を勉強しても、「わからないことだらけだ」「面白い」と、学ぶ楽しさを味わえるのでしょう。
(祥君は能力も高いのですが、それ以上に努力もしています。普段から、熱心に勉強をしているのです)
アメリカの大学も、そんな彼の興味関心に答えられる場をちゃんと用意しており、
彼の意欲や能力をのばすような教育を提供しているのが、これまた感銘を受けるところです。
マイスターが一番感銘を受けたのは、まだ大学に入る前、とある教師が祥君に言った、
「私から習ってはいけない」
という言葉です。
これぞ、本当のプロ意識!と、マイスターは思う。
父親の桂さんは、この言葉を聞いて
「教師の謙虚さというものをあらためて肌で接することになりました。日本ではどうでしょうか。先生は恥を忍んで、こういう言い方をされるでしょうか。できる子であれ、できない子であれ、自分がめんどうをみなければならない、という義務感でけっしてこういうことは言わないのではないかと思いました。」(「僕、9歳の大学生―父・母・本人、「常識」との戦い」)
と、語っています。
この先生からは、別の先生を紹介してもらったそうです。
桂さんがいうには、
「アメリカにはこういう教育のネットワークがあって、指導の限界に対して、様々な選択肢が用意されている」のだそうです。
日本人の感性だと、この「私から習ってはいけない」というプロ意識は、さじを投げてしまうような印象を与えてしまうかもしれない。
でも、子供の将来を真剣に考えていただきたいのが親の本当の気持ちで、
この先生のこの一言に接せられただけでも、アメリカに来てよかったと思う、
そう、桂さんは書いています。
マイスターも、もし祥君が日本の学校に通っていたら、ここまで才能を伸ばすことはなかったと、断言します。
祥君は、最初は親の考えもあって、普通の小学校に入学します。
しかし、教師の強い勧めもあり、途中で、「天才児を集めた教育」をする学校に通うことになります。
誤解を招きそうですが、これは、「天才を作るための学校」ではなくて、
普通の学校では受けられない、「それぞれの特別なペースに会わせた学び」ができる学校、という方が正確かと思います。
そこには、天才児のための教育を専門にする教員がいたりするわけです。
日本には、そんなスペシャリティをもった教師は、いません。
少なくとも、学校としては、存在しません。
それ以前に、特別な”highly gifted”な子供と出会った時、
その子供を専門家に送り込むという考え方や、ネットワークを、日本の現場の教師がどれだけ持っているか。
桂さんも、このように書いています。
-もし祥が日本の学校に入っていたら、きっと問題児になっていたでしょう。学校の勉強は一週間で退屈になり、授業中は隠れて本を読んだり、落書きしたり、字は乱れていいかげんになり、周りにいたずらしたりするばかりだったかもしれません。周りと違うのでいじめにあっていたかもしれません。いじめにあう子も、例えその子に非がなくても波を立てる一部分ですので、学校側から見ると「問題児」の一人になってしまうでしょう。日本では普通でないことが「変わり者」であり、「ちょっとおかしい」子供になってしまうでしょう。-(「僕、9歳の大学生―父・母・本人、「常識」との戦い」より)
マイスターも、それ、すごく想像できます。
っていうか、桂さんは日本生まれ日本育ちで、日本の学校に通っていたわけですから、こうしたイメージが出るのももっとももです。
大学の入学資格ですら、「18歳以上」が基本的原則となっている国です。
「同じ年齢の子は、同じ能力を持っているのだから、同じように扱わなければいけないのだ!」
という信念で教えている教師が少なくない国です。
この事実、あらためて考えると、おそろしい限りです。
私達の教育システムは、既に、きっと数え切れないくらいの”highly gifted”を、問題児として扱ってきていると思われます。
アメリカは、天才が育ちやすいというイメージがありますが、もしかして”highly gifted”が生まれる確率は日本と同じくらいなのではないでしょうかね?
それを日本はもれなく丁寧につぶしてきて、
アメリカは伸ばしてきただけなんじゃないのかな?
と、マイスターは想像してしまうのです。
これは、誇張でもなんでもありません。十分に、あり得る話です。
桂さんは言います。
「祥は年齢において私達大人が持っている『子どもにはここまでしかできない』という常識を越えています。」
と。
これが、本書の副題となっている「常識との戦い」の意味するところです。
日本は、「常識」をことさらに強いる国です。
・飛び級制度と学力観
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50038115.html
・教授は50代以上じゃなきゃダメ!? 公募の年齢制限
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50037994.html
・年齢で差別する大学
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50041107.html
過去の記事でも、このようにその一端をご紹介しましたが、年齢に関する平等観念は、子供だけでなく、大人まで徹底されています。
その神経質さは、目に余るものがあります。
(その分落ちこぼれが少ないんだ!という主張もかつては聞かれましたが、それとこれとは、まるで違う話です。
それに、落ちこぼれが少ない、という主張も、今は果たして通じるかどうか)
可能性を伸ばすことは、教育の大切な使命の一つだとマイスターは思っておりますので、
日本社会のこうしたところは、大変残念に思うし、憤りを禁じ得ません。
教育の権威であるべき大学までが、こうした考えを強く支持していることには、失望です。
もし祥君が日本で学んでいたら、こうした日本の「常識」の数々を打ち破ることは、できなかったでしょう。
小学校でも、中学校でも、高校でも、大学でも、大人になっても、破れない「常識」が待ち受けていますから。
大学で働く身としては大変残念ですが、アメリカで学んだのは、祥君の場合は、正解だと思います。
さて、この本が出版されたのは、実は2001年。
10歳だった祥君の日記は、ニューヨークのワールド・トレード・センターで起きたテロ事件に対する考えをつづったところで、終わっています。
その後、彼はどうなったのか?と思い、調べてみたところ、以下のような英文の記事を見つけることができました。
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■「12-year-old begins medical school(12歳が医学大学院へ)」(CNN.com)
http://edition.cnn.com/2003/EDUCATION/08/25/sprj.sch.wonder.kid.ap/
■「Young Performers: Sho Yano(若き表現者:矢野祥)」(From the Top)
http://www.fromthetop.org/radio/performers.cfm?pid=1868
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もともと、生物学や医学に特に興味を持ち、医学の道に進むことを希望していた祥君は、
現在、シカゴ大学医学大学院(メディカル・スクール)にいました。
学ぶ意欲を持ち続け、大変な努力をしながら、目指す道をしっかりと着実に進んでいるようです。
こうした”highly gifted”な子供の中には、頭が良すぎて、途中で学ぶ意欲を失ってしまう方もいるようですが、祥君は違ったようです。
何のために学ぶのか、何をしたいのか、をちゃんと自分で考えられる人間として育てられてきたからでしょう。
また芸術の面でも、表現を楽しむ若者であり続けています。
(リンクから、祥君の演奏が聴けます)
きっと、彼は、すばらしい医者、もしくは研究者になるでしょう。
「教育って何のためにあるんだろう? 誰のために行われるんだろう?」
ということを考える上で、この本は、様々な刺激を与えてくれます。
マイスター、様々な感銘を受けつつ、
「日本だったらどうだったろうか…」
という考えがあれこれ浮かんできて、複雑です。
しかし、祥君のような方をみなが知ることで、
もっと日本でも、”highly gifted”な子供が肩身の狭い思いをすることなく学べるようになればなぁ、と思うのです。
自分は天才ではないけれど、いつか「gift」を持った方が学びに来たら、
そのときはそのgiftを、自信を持って受けとめられるような学校でありたい、
と思ったマイスターでした。
マイスター様
毎日、大変楽しみに拝見しています。
「僕、9歳の大学生」非常に共感いたしました。
ご両親の価値観、人生観とアメリカの教育環境が矢野祥君の才能を最大限にのばすことができたのだと思いました。
いつもマイスターのブログで勉強しています。
貴ブログを、私のパソコンのホームにさせていただいております。これからも、益々のご発展を心よりお祈り申し上げます。
K.T. 様、こんばんは、マイスターです。
今までいただいた中で、一番うれしく、かつ、一番プレッシャーの大きなコメント、ありがとうございます!
ほ、ホームページに設定してくださっているなんて!
まだまだ私も勉強不足の身ですが、期待にお応えできるよう、これからも「毎日更新」でがんばります!
書籍「僕、9歳の大学生」の記述から見えるのは、とにかく「可能性」を大切にしようとするアメリカの姿です。
日本は「可能性」に対して、リスクとか、責任持てない、とか、平等じゃない、とかいったネガティブなイメージで接してしまうことが多いのかな、と感じました。
ぜひ祥君に会って、色々な話を伺ってみたいです。きっと、何事に対してもポジティブな意見を聞かせてくれることと思います。
このブログを読んだ時、既に2年前にある方がこの詳細を紹介されていたのを知っていた。日本でもけっこう有名な記事になっていたと思います。
だから今更と思っておりました。
前例研究は重要です。
KTさま、コメントありがとうございます。
また、この記事の内容が、既に2年前に紹介されていたとのこと、情報ありがとうございます。
これは私がブログを続けていく上で非常に大切なことですので、ここで若干、ご説明いたします。
本件に関しましては、
○いま現在、世間的にこうした事例がほとんど知られていないということ
○今、これを取り上げる意味があると考えたこと
以上の理由で、このブログでも今回、ご紹介させていただきました。
本ブログはアカデミズムではなく、どちらかというとジャーナリズムの味付けになっております。
明らかに広く世間に知れ渡っていると思われる前例報道、等がある場合は、当然、ジャーナリズムの観点から、ご紹介しなければなりません。しかしそれ以上に、まず私個人(元プロデューサー)の視点で問題を取り上げること、私の考えるタイミングで情報を出すことに重きを置いております。ですので、前例があるかどうかは、第一の判断基準としておりません。
これは、アカデミズムとジャーナリズムとの違いだと考えております。
例えば新聞も、「過去の事件をあえて今紹介する」ということを行います。それは、事件を熟知している方からすれば、「何を今更」と思われる行為です。
しかし、ジャーナリズムは、その情報を「今、このタイミングで世に問う」ことに意義を見出しているわけです。
その際、前例報道をすべてご紹介することにもまったく意味がないわけではありませんが、そうした前例を積み上げることがジャーナリズムの本来の役割ではない、と考えています。
先例の積み上げを重視するアカデミズムの表現と、最も異なっているところだと思います。
KTさまのように、過去の事例をすべてご存知の素晴らしい方にとっては、退屈に思われることもあるかもしれませんが、こうした立ち居地でブログを書いておりますので、ご理解いただければと思います。
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。
飛び級についてサーフしていたら、ここに来ましたので、他にも読まれる方のことを考えて、天才児、祥君のSATにスコアについて、訂正させていただきます。
SATは一教科800点満点、必須科目3教科合計2400点満点で、ハーバード大学へ入学希望の場合、満点に近いスコアが必要です。
1500点では、カリフォルニア大学(UCLAなど)も入学は困難かと思われます。
暇人さま
こんにちは。コメントありがとうございます。4年前の記事がまだ読まれているということをうれしく思います。
ご指摘の点ですが、2005年頃まで、SATは1600点満点のテストでした。ちなみにこの本が出版されたのは2001年。現在とは基準が違います。祥君は1600点満点のテストで1500点を取っていたということになります。
やっぱり、すごい点数なのかなと思います。
また、何かお気づきの点がありましたら、コメントいただければと思います。