外国人を相手にするってこういうこと?

趣味は旅行、それも海外旅行。
そういいながら、全然旅行できておらず、悲しいマイスターです。

来年こそ、海外に…!
と、野望だけは燃やしてみますが、果たしてどうなるか。

みなさんは、外国生まれの方に知り合いはいますか?
外国で生まれ育った方と、語り合ったことはありますか?

今日は、自分の話で恐縮ですが、
これまでのマイスターの実体験をもとに、自分なりに思った

「外国人を相手にするってこういうこと?」

という考えを書きます。
(あくまで、個人的な経験にもとづくものですので、そこはご了承ください。)

突然ですが、マイスターのいとこは、ハーフです。
ちいさなころから、いとこの家に遊びに行くと、東欧系の叔母がいました。
叔母もいとこも、その家では日本語を話しているわけですが、やはり顔つきには東欧系の雰囲気がありますし、ちょっとした文化の違いを、生活の中で感じることがありました。
小さなことから「異文化の風」を、そよ風程度にですが、感じていました。
それが関係あるのかわかりませんが、海外の方に対してプレッシャーを感じたり、臆したりすることはあまりない、と思っています。

大学生になってから、バックパッカーとして、1ヶ月半、ヨーロッパ数カ国を列車で旅しました。
異文化の生活観や、街に刻まれた歴史、人々の働く姿、宗教のあり方などを、目と耳で知ることができました。
大学を卒業するまでに行った国は6カ国。
そんなこんなで、

「俺って、海外知ってるじゃん」

と、そのときまではちょっといい気になっていました。

しかし。

この時点で、気づいていなかったことがありました。

それは、

「自分は「外国』を知っていても、『外国人』を知らない」

ということでした。

これからは、日本人は外国を知る以上に、外国人を知った方がいい、と今マイスターは思います。

「外国人」に向き合うことになったのは、大学院に進学してからでした。

香港の大学で行われた、国際デザインワークショップに参加したのが、最初のキッカケでした。
現地の大学生とチームを組んで、数日間、香港の街を調査し、デザイン提案をして、最後にプレゼンするというものです。

この数日で、マイスター、自分が「日本の中で育った日本人」だってことを痛感しました。

想像してみてください。

何を言っても、「Why? Why?」が返ってくる毎日を。

「こんなの当たり前だろ!?」と、こちらが思っていても、必ず「Why?」です。

日本から来た学生同士は、それぞれが何をしたいのか、何を考えているのか、なんとなくわかりあえるのです。
で、「それは、こういうことだよね?」と、お互いに聞けるのです。

でも、現地の学生達は、

「どうしてここを赤に?」
「なぜ、ここの形を三角形に?」
「あなたのコンセプトは○○というけど、どうしてそう主張するの?根拠は?理由は?」

です。
話、進みません。

最初、アタマがくらくらしました。

もう帰りてえよ、こいつら物わかり悪いよ、そんな思いです。
わざわざ説明するほどのところじゃないだろ…なんてことを、毎日ずっと思っていました。

また、

「I don’t think so…(私はそうは思わない)」

というセリフも、うんざりするほど聞きました。

で、あちらから主張を返されると、こちらは、それを覆すだけの根拠を主張できないのですよ。

これは、くやしい。
はっきり言って、デザイン能力は、日本人の学生達の方が、上なのです。
(だって、あちらは学部生で、こちらは大学院生が中心でしたから)

でも、感性やデザインのスキルだけでなく、「理屈」「論理」で戦うとなると、とたんに押され気味になるのです。

そもそも、マイスターの英語力は、「一人で海外旅行に行って帰ってこれる」レベルでした。
簡単な会話はできても、議論をしたり意見を主張したりとなると、かなりこころもとないです。
他の日本人メンバーも、それは同じでした。

日本語だったら言い返せるのに!と、全員、歯がゆい気持ちを味わっていました。
「建築家志望の大学院生」というのは、そもそも、理屈っぽいデザイナーの集団なんです。
まだタマゴでしたが、日本では、それなりに理屈をこねて、嫌がられている(笑)集団です。
んで、香港に行くということで、それなりに英会話をたたき込み、ディスカッションの練習なんかもしていたわけです。

それが、まったく通用しなかった。
その香港の大学の学生は、現地で育った中国人がほとんどでしたが、彼らは大学から英語を授業で使っているのです。
教員の国籍もグローバルで、欧米式の、ディスカッションばりばりの授業を展開しているわけです。

「見せればわかってもらえる」
「デザインは、理屈じゃない」

なんて、甘かった。

このとき、23歳のマイスター、初めて「外国人」を知った気がしました。

自己紹介をして、
ちょっとした友達になって、
食事をしたり、趣味の話を楽しんだり。

そこまでは、ハードルはそう高くありません。
しかし、お互いに協働するとなった途端に、壁が見えました。

自分達日本人は、普段、

「相手が自分を理解していること」

を前提にして動いている。
どこの国の人間も、当然自国内ではそうだと思います。
が、日本人は、特に、そうした空気の中で普段過ごしているんだと思います。

それが、マイスターが身をもって知ったことです。

その後日本に戻ってきてからも、異文化に浸り続けることになりました。

論文指導についた教員は、日本人ですが、アメリカやイタリアで学んだ若い女性の先生で、とても、日本人とは思えない気質の方でした。
基本的にはクールでドライ、ビジネスウーマンタイプの方で、どんな目上の方にも、企業のエライ人にも、言いにくいことをズバリ言う人でした。
言っている内容はとっても正しいのですが、学生の自分たちの方が、ヒヤヒヤしていたくらいです。
さらに所属したゼミは、20人メンバーがいて、そのうち帰国子女が17人という、

「ここはほんとに日本か!?」

みたいな組織でした。
帰ってきても、年下から「Why?」を言われる日々は終わらなかったのでした。

その後、就職した会社(大学職員になる前の勤め先)は、社長が、アメリカで長い間ブイブイ言わせていたプロデューサーでした。
完全実力主義で、論理的な説明を常に求める、

「おまえ本当はアメリカ人だろう!?」

という精神性の持ち主でした。
(レストランで何か気に入らないことがあると、しょっちゅう、支配人を呼んでたし)

そんな、

「日本人とは違う発想、行動規範を持つ人々」

の相手をしていたことで、マイスター、すっかり合理主義&理屈野郎になってしまいました。

が、それでもやっぱり、

「これで、わかってもらえますよね?」

「こんなんで、どうでしょうか?」

「あぁ、それはこういうことをおっしゃりたいんですよね?わかります!」

といった、日本人としての行動で物事を進めています。
長い間の生活で染みついた日本的な行動規範が、意識しなくても発動する(!)のです。
みなさんも、おそらくそうだと思います。

国内で、日本人を相手にする分には、あんまり問題ありません。

もちろん、今後は、なぁなぁな身内主義でコトを進めるより、
合理的でオープンな物事の進め方をすることが、社会的に奨励されていますから、合理性、論理性は身につけていくべきです。

それでも、日本人同士のコミュニケーションに日本のやり方が一番しっくりくるのもまた事実ですから、それはすべて無下に否定されることではないと思います。

マイスターも、合理的に物事を進めたい方だと自分では思っていますが、やっぱり日本人の対応が出て、相手の理解に甘えてしまうことがよくあります。
(甘えていいときと、いけないときがあるとは思うのですが、たまに失敗します)
自分はまだまだです。

日本人の全員が無理に、日本人であることをやめて、
無国籍になることもないと思います。

でも、それは、
ちょっとでも背景の違う人にはまったく通用しないんだってことを、
私達は知っておくべきなのでしょうね。

普段から、想像してみるといいでしょう。
海外の人を相手にする時、
背景の違う人を相手にする時に、
私達は、論理だけで相手を説得することができるかどうか。

大学という組織は、本来、多様な人々が訪れるところ。
実際には、普段は均質な大学用語でコミュニケーションが成り立つことが多いです。
油断せず、異文化との接触に備えておきたいものですよね。

その場合の「異文化」というのは、英会話ができるかどうかという話ではなく、
論理的に説明ができるか、
相手を納得させられるか、
というところにあるのだと思います。

もちろん、相手の文化を知るとか、歴史を知るとかということは、非常に重要です。
でもその前に、論理で説得させる姿勢がなければ、せっかくのそうした知識も無駄になってしまうでしょう。

そんなこんなで色々考えたけど、
まずはとりあえず、ひさびさに英語を勉強しようかなと思う、
最近海外に行ってないマイスターなのでした。