年齢で差別する大学


「信長、秀吉、家康の誰が好き?」という、日本人なら一度は答えたことがある質問がありますね。
かつては秀吉でしたが、年齢が上がるにつれ、信長がモーレツに好きになってきた、マイスターです。

いつから自分は、下克上野郎みたいな気質になってしまったのか。

先日、

・教授は50代以上じゃなきゃダメ!? 公募の年齢制限
http://blog.livedoor.jp/shiki01/archives/50037994.html

という記事で、日本の大学の教員公募における「年齢制限」の実態をご紹介しました。

それに関連して、マイスターお気に入りのブログ「アメリカの大学事情」さんが、アメリカの教員雇用について紹介してくださっています。

教員の応募ですが、アメリカの場合、提出される履歴書には、
名前と、卒業した学校、そして過去の実績などしか書かれないそうです。

年齢、生年月日、性別、国籍というものは載せない、とのこと。
「Affirmative Action」という、人種、年齢、性別、宗教、性的な趣向などによる差別を禁じる法律があるのだそうです。

詳しくは、「アメリカの大学事情」さんの記事を!

■「Affirmative Action」(アメリカの大学事情)
http://ameblo.jp/yanatake/entry-10003981088.html

日本でも大きく報道されたハリケーンや、「教授の定年」についてなど、他にも興味深い記事が多いです。

以下はマイスターの個人的な意見ですが、
アメリカは、「人権」や「差別」ということに関して、社会的に関心が高い印象があります。

それは一面では、日本以上にそうした問題が根強く残っているから、でもあっただろうとは思います、が、「Affirmative Action」のように国として差別の撤廃に徹底して取り組んでいる姿勢は、やはり大いに見習わなければなりません。

日本は逆に、「日本社会は同質な人の集まりだ、平等だ」という前提で世の中を認識している人が多いんじゃないでしょうか。
それゆえ、その前提から外れる人に対しての差別が生まれている、と感じます。それが差別であると明確に認識されていないのが、また問題です。

公募してきた人間を年齢で選ぶ、なんてのも、その一例でしょう。
実際、この行為に違和感を感じていない方も、少なくないと思います。
ですが、これは明確な、差別です。

日本で最も一般的に行われているのは、「若いから」という差別だと思います。

「公募条件」という、目に見えるところだけでなく、
採用してからの扱われ方にも、年齢が影響します。

知識産業であっても、それは変わりません。

その一つの例として、私の知人のことをご紹介します。

彼は、福祉コンサルタントとして働いています。
彼は大学院で福祉に関して研究をし、この分野に関して非常に高い意識と、詳細な知識を持っています。
マイスターも、福祉や保育のことについて、しょっちゅうその方に質問をしていますが、答えが返ってこないことはほとんどありません。勉強させていただいてます。

たまたま、先日、そんな彼と話していて、聞いた話。

彼が入ったコンサルティング事務所では、「若いから」という理由で、彼は上司より知識がない人間として見られている模様なんですね。

社内の研修で、講師が受講生を指名して質問するのですが、彼の上司が知らないことを彼は知っており、上司が答えられない質問に対して、彼は答えられるわけです。
知識量だけで言えば、彼は新人にして既に、年齢が上の上司を越えてしまっているわけです。

こうしたことはもう、日本社会のどこでも、当たり前に起こることですよね。
「知識」に関しては、日本は均質社会ではありませんから、起きて当然です。

でも、講師は、はなから彼を指名しません。

「新人だから、こんなことは知らないだろう」

という前提でいるからです。

で、上司とか、ある程度年齢がいった人ばっかりが指名されて、トンチンカンな回答ばっかり聞かされているわけです。
さぞ、彼は歯がゆい思いをしただろうと思います。

(マイスターのようにこらえ性のない人間は、挙手して強引に答えてしまうと思いますが、彼はその辺をこらえられる人間でした)

もしかすると、講師は

「若い人はどうせこんなことを知らない。知らないのを指名して、恥をかかせるのもかわいそうだ」

という、その人なりの「善意」でこうしたことをやったのかもしれませんが、
前提からして間違っていますし、
マイスターなんかは、これは善意という名前を借りた差別だろうと思います。

コンサルタントとは、実力主義で若手でも成り上がれる世界、というイメージがあるかもしれませんが、実際には、日本の企業ですから、こんなもんです。

大学に関しても同じことが言えると思います。

「知識のカタマリ」みたいに見える大学教授も、日本の場合、そのほとんどは
助手などで「入社」し、年功序列で教授になった人です。
年功序列という、「実力とは関係ない」システムに従って出世した人が、大半です。

もちろん、その間にずっと専門の知識に浸かっていたということ自体は、否定されるものではありません。

でも、教授という肩書きのほとんどが、「その人の実力とは関係がなく与えられた」ものなのだということは、忘れてはなりません。
これは、日本の高等教育を考える上で、とても大事なことです。

(ただ、「名誉教授」という名前を持っている方は、
 何らかの目立った業績を残された方である可能性がちょっとだけ高いです)

大学職員も、そうです。

教員以上に、

「年齢以外に、能力を測るすべがない存在」

と認識されているんじゃないかな、と思います。
特に新卒で入った方は、後からどんなに知識を仕込んでも、年齢以上の評価を受けることが困難であるように見受けられます。
そんな職場をユートピアと思うか、地獄と思うかは人それぞれ。

「大学行政管理学会」の会誌に掲載されていた研究成果で、
「大学院卒の職員」についてのレポートがありました。

詳しくは稿を改めてご紹介したいと思いますが、

高度な知識や学問を身に付けても、大学職員としてはまったく評価されない、
修士や博士の学位をとっても、やる仕事は変わらない、

という現状があります。
それに不満を持っている方も、少なからずいらっしゃるようです。

「年齢」という絶対基準が、(一応)知識と努力の証明である「学位」を上回って評価されるわけです。

これはもう、病的な状態だと思います。

なぜ、そこまで年齢に固執するのか。

論理的に考えれば病的なんですが、普段はそれを不思議に思わないのが日本社会。

「同じ年齢なら、知識も経験もみな同じ」

という、ここ15年くらいの間に崩壊した前提が、まだ年配の方を中心に根強く残っているみたいですね。

なーんてことを、この数日間、特に考えてしまったマイスターでした。

1 個のコメント

  • マイスターさん いつも面白い記事をありがとうございます。
    社会のルールを作っているのが年功制の恩恵を受けている方々ばかりだと、このような馬鹿げた事態になってしまうのでしょうね。
    今回のトピックに関連して、以下の二冊の本をお薦め致します!
    「世間の目」佐藤 直樹
      第4章 学校と世間
     大学という「狭すぎる世間」 排除する大学から開かれた大学へ
    「ホンネで動かす組織論」
     企業組織について述べていますが、内容の多くは役所、学校、労働組合などの 組織にも当てはまります。